話をしようよ
昨日の日記の最後に書いたことを、また考えていた。
「人生なんて、会いたい人に会えなくなってからが本番」
ある人が言う。
そんなはずはないとわたしは信じる。
会いたいと思う人が手の届くところにいた日々が、序章でしかなかったなんて思えない。
わたしは、「本番」という言葉の表面上しか見ていなくて、彼女がほんとうに書きたかったことを読み取れていなかったのではないか、とふと思った。
じゃあ何なのかと言われると、そこはまだ不鮮明なのだけれど、なんだか大切な気づきであるような気がした。
わたしたちは語彙を持ち、文法を学び、それをどう使うかは人間性が決める。
ただ、そこで選ばれたものがその人のすべてではない。
何かを伝えようとするとき、人は自分の基準で言葉を探し、組み立てていく。そのとき、選ばれなかった言葉が出てくるはずだ。選んだ言葉に選ばれた理由があるように、選ばなかった言葉にも選ばれなかった(選ばない、ということを選んだ)理由があるのだ。
そこにあるものは何か。人間性だ。
少し話が逸れたので戻すが、人間ひとりひとりに配られた人生があり、育った環境があり、関わった人間がいて、触れた物語がある。構築されていく価値観、世界の見え方にはばらつきがあって当然なのだから、丁寧に言葉を紡ぎ、伝え抜いたつもりになっても、相手に100%伝わりきるわけがない。
だから、人と人がほんとうに分かり合えることなんてないのだ。
それでもわたしは、通じ合うことなど不可能だと理解した上で、やっぱりできる限り正確に心の温度を伝えたいし、手渡された言葉をきちんと受け取りたいと願う。
誤解させたくないし、したくない。
そのためには、他にも努力するべき点がいくつもあるのだが、それはまた別の話だ。
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