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どうせ稽古を垂れ流しているし、これも外に垂れ流してみる。

富山県で人知れず活動している劇団血パンダ。
本番直前前だというのに、役者たちと技法そのものについて再確認をしたもので、テキストにまとめてみんなと共有しました。
以下は、そのテキストに、さらに少し手を加えたもの。
この前のエントリーの中身を、さらに具体的にどうしようかとまとめたものです。

上演用に仕上げているんだか、基礎練をやっているんだかわからない感じになっていて、それはそれで面白いというか、そもそも田舎で気ままに演劇活動ができるのをいいことに、演劇の発生する瞬間をずっと掘り下げている。
毎週の稽古をYoutubeチャンネルで垂れ流しつつ、あれこれと進めているのだけれど、チケットが全然売れないので、そろそろドキドキしております。

とりあえず、このまとめに至った技法模索の流れ。

感情表現でなく、思考の流れがどう見て取れるかの方に注力して発話していくというのが大前提として、ずっとある。
誰かのセリフの中に、自分が行動したり喋りたくなるトリガーがあって、それを使って、一定のテンポ、一定のトーンになるのを避けないと、他の役者からペースメーカーとして使われてしまい、結果、客の記憶に残らなくなる。
この辺りを模索していた時に、三木那由他の『会話を哲学する』が発売され、「コミュニケーション」「マニュピレーション」があるということで、会話のきっかけが整理できた。

さらに、口走っている言葉に「どんな裏付けがあるのか」。ということに注目しながら、会話を組み立てていったものと思う。
セリフの扱いが「わかっていなかったらふわっとする」というのは、主にセリフを口走る方向や対象などで発覚していく。
ここまできたら、これをもう一段進めて、どれだけ前提条件を持って会話ができているか。前提条件のキャッチボールをどこまで深められるか、抽象的にしても耐えられるかという方向で、会話を強化した。

コミュニケーション、マニュピレーション。体の向き、足。

  • コミュニケーションの枠を明確に捉えておき、コミュニケーションの枠との距離感をどう扱うのか。

  • マニュピレーションをどんなニュアンスで行うのか。

  • マニュピレーションにどの様な反応を示すのか。

ここに、体の向き、相手との距離が入ってくる。
二人の会話はどんな風に始められるのか。口火を切る際や、コミュニケーションの枠が定義される瞬間に、その妥当さが問われることになる。
コミュニケーションの枠の取り直しや、枠の中での指示語の扱いなどは、かなり厳密に行われるべきで、ただそれは指示語の音をある程度立てるだけでも実現できる。
体の向きについては、登場人物の関係性にもよるけれど、相手をある程度正面に捉えて、身を背ける様な動きをしないことが、円満に見えるコミュニケーションの中では意識されていくべきで、相手に対して身を背ける様子は今後、もっと意識して使って効果を狙っていくものになっていく可能性がある様に思う。
足を無駄にもたもたとさせない。どっちつかずの体の向きで立たないというのは、厳格にルール化していく。

再びコミュニケーション、省エネ。

コミュニケーションの枠を保つために、妥当な順番は保たれるべきとはいえ、戯曲の表記がどうあれ、誰かのセリフ終わりに「他に比べて特に重要なタイミングなどない」というのも、そろそろひとつの前提として考えた方が良い。
会話がどちらに転ぶかわからないのは、互いにコミュニケーションの枠の中で思考をやりとりしているからだ。実際の日常会話はもっとゆっくりしているかもしれないし、散発的かもしれないが、そこはあまり問題ではない。
見る側からすれば、「なにかについて話していることはわかる」意味はわからなくてもよい。
「会話がどこに向かって転がるかが掴めない」話の展開ということでは予測できたとして、登場人物のやり取りのつかみどころについては、後手に回って追い続けるしかなければそれで良い。
基本的に、観客について完全な形の想定は不可能なので、役者の一挙手一投足をむさぼり見るしかない存在を、劇場の中に発生させるという程度に心にとめておく。
気にしようがないものについては、気にしてはならない。
演出家が見て取れないものを見る観客は、幻をみていると考えて良い。

実は、話をしている側よりも、話を聞いている側が見られている方が上手くいっているという意識で組み立てていく方が、急がば回れで自分の利益を大きくできると考えた方が良い。
そして、聞き手に対して、話にフォーカスさせるには、わざわざ力んで話をして聞かせない方が良い。
例えば、日常生活のコミュニケーションを考えると、なんらかの力みを必要とすると思ったとしても、劇中は台本にあるセリフを言っているので、フォーカスさせる下地はすでに存在している。
つまり、ここでいわゆる「表現」を試みると、それは記号的に受容することが可能なので、「この記号は受信したから、ここから注意を外して、別のものを追いかけよう」。
そんな選択を、宿命的に全てを貪り見ようとするしかない存在な筈の客に許してしまう可能性がある。
記号的で安定した音と意味として聞こえてくれば、それは瞬時にBGMになり、意識されず記憶に残らなくなる。
とにかく、一旦は反応として素直に出てくるもの以外には、なにもない省エネ状態の方が良い。

実際、実践としてどう実行していくのか

  • コミュニケーションの枠を決める瞬間は、自分でニュアンスを決めることができる。

    • 逸脱や間違いは、ほぼ無い筈だけど、修正や必要なニュアンスの要求があれば演出からするので、とりあえず素直にいく。

  • とにかく相手に反応する感じからスタートして、力加減をしていく。

  • 一旦、自分から「表現」には手を出さない。

    • 実は、長いセリフほど、ただ相手を見て伝わる様に丁寧に言うだけで良いのではあるまいかという疑惑が今ある。これも反応を見ながら力加減をするということ。

  • 相手に体を背けずに距離をとる。

    • おそらくここが肝になる。日常とは違う距離を作ることで、変化を作りその辻褄を合わせることで、コミュニケーションの中心になる位置につける。

  • 何を話すかによって、語頭の音を外さずに意味を通す。

  • あくまで、反応のトリガーが起点で、「発話」なり「動作」なりをする。

    • 反応から準備して、発話可能になるまでの時間をきちんとコントロールする。早い、遅いがフラットにコントロールできるかは見極めが必要。

      • コミュニケーションの枠の決定。

      • コミュニケーションの枠の変更。

      • コミュニケーションの枠への干渉。

      • 枠の内側をさす指示語。

      • 枠の外側をさす指示語。

      • マニュピレーションを試みる。

      • マニュピレーションの試みに反応する。

つまるところ、一回サラビンのものに近い感じで仕上げて、そこから力加減する方が、登場人物みんなが美味しい感じの演劇に仕上がりそう。
ここまでいけば、避け難い個体性から発生する関係や、各々の特性が関わってくるので、誰が不利とかよりは、純粋に「個体性」「手数」「テクニック」の勝負になっていくものと思われる。
相手を見ながら自分が選び得る妥当さで何もしないこと、その妥当さを外したとして、別の経路を相手を見ながら再現可能かというところが読解力と手数の関係になるだろうし、時運が選んだ態度やニュアンスの通りに見えるかという根源的な表現力がものをいうことになる。

公演『冬の練習問題』チケット発売中

富山県でも、かなり集客力のない劇団なもので、もうなんだか大変です。
内川で待ってる!
2024年6月8日(土)15:30〜
6月8日(土)19:00〜
6月9日(日)15:30〜
6月9日(日)19:00〜
開場は30分前
場所:内川Studio(富山県射水市本町3丁目13−4
料金:2,000円(リピート1,000円)
定員:各回25席。


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