これまでと違うものに眼を向ける。
短歌の経験値を上げたくて、なんとなく短歌系の本にチラホラと手をつけ、少し前から角川から出ている雑誌の『短歌』を読んでいる。
経験値が欲しいと言いつつ、自分も詠んでみようということでもなく、そもそも演劇のセリフの扱いについて考えているうちに、散文、散文詩の前に、定型詩はそもそもどうなっているのかということが知りたくなったものだ。
とりあえず、古文の授業の延長的な知識と百人一首やら古今、新古今はなんとなく読み、数名の歌人の名前はわかっても、名前と作品が結びつくことのない状態からスタート。
そんな状態でも昔からある母語の定型詩を相手に、既にピンとくる歌、こない歌というのはあり、既に自分の中で何か好みのようなものが生じているということがわかる。
好みがあったとして、理解や、より深い鑑賞のための眼や感覚は今後何か変わっていくだろうか。
雑誌『短歌』で連載しているカン・ハンナのエッセイと歌を読んでいると、彼女の母国語の韓国語のリズム感もあるだろうか、何か、余計に心のリズムのようなものがストレートに伝わってくるような気がして、とても興味深い。いや、カン・ハンナに関しては、素直にファンになってしまった。歌集買いました。第二歌集も間も無くとのこと。
なんとなく雑誌を見ているだけでも、多くの短歌結社があり、歌人には師と仰ぐ人が居て、仲間が居て自分が居るという単に詠みっぱなしでない人々の層がそこにあることもわかる。
何か目指すものがあり、作品に対する批評があれば。意識して続けていく限りは、自ずと磨かれていくであろう羨ましさを感じる。
こちらはといえば、特段、直に師事したという師もおらず、ただ田舎で演劇の形式自体と戯曲について考えている、日本の現代劇の現状の中では特段珍しくもない辺縁の果て。書く仲間が居るというだけでも、かなり羨ましい。
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