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物語 ウクライナの歴史(1)

普段ならなかなか読むのに苦労する中公新書ですが、本書は一気に読了。
書かれたのは2001年ですが、ザポリージャ、オデーサ、ハルキウ、リヴィウ、キーウと、最近毎日のように耳にするようになった地名が次から次に出てきて、歴史的背景をまさに「物語」として小説のように読み進めることが出来る一冊でした。

本書はウクライナの歴史を辿ったものですが、ここでは
ロシアのウクライナ侵攻はなぜ起きてしまったか
について、wikipedia情報も交えて再構成してみました。
※ あくまで私個人のざっくりとしたまとめですので、正確には本書をご覧下さい。

1. 地政学上、超重要な地域である

正直、ほぼ99%の日本人がウクライナの場所はまったく知らないか、知っていてもざっくりにしかわかっていなかったと思います。

「ざっくり東欧。ポーランドとロシアの間くらいじゃね?」

大体の人はこんなもんだと思います。

この機会にしっかりみてみましょう。

いつもお世話になっていますGoogle Mapより

まずでかい。フランスよりでかいではないか。

そして、地政学的には、黒海の北岸なのですね。

また当然、ヨーロッパとアジアの緩衝地帯だと言うこと。

地政学上、海や河川は物流の拠点になるので、とても重要なポイント。よく考えてみれば、大量の輸送は今も昔も海上が中心。だから、港にアクセスがあることはとても重要なことらしい。黒海は河川を通じて、なんと北のバルト海にもアクセスでき、さらに当然地中海にも繋がっているらしい。だから、ここは物流において超重要な地点。結果、古くは紀元前7世紀からギリシア人が植民都市を作り、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)やオスマン・トルコもこの地に進出してきた。

そして、ヨーロッパとアジアの緩衝地帯にあたるので、モンゴルの支配も受けた。モンゴルが崩壊した後は、ポーランド・リトアニア(14世紀以降)、モスクワ公国、ロシア帝国、オーストリア帝国、オスマン帝国等の支配を受ける。

リトアニアって、今はバルト海の小さな国というイメージだったけど、昔はポーランドやモスクワと並んでウクライナを支配した大国だったんですね。

地政学上、重要な場所にあることがわかる

そんなわけで土地柄、昔から非常に多くの大国の侵略を受けてきた歴史を持つ。しかし、そんな中でもしっかりとウクライナたるアイデンティティは醸成されてきた。

2. キーウ・ルーシ公国

ここに外務省が公開している各国の基礎情報ページがある。ウクライナ、ロシアはそれぞれこちら。

何か気付いたことありませんか?

これ見るだけでもそりゃあ様々な気付きがあると思いますが、
注目してほしいのはここ👇

ウクライナとロシアの略史(外務省HP)

あれ? 自国史の最初がウクライナとロシア、同じやん。
いずれもキーウ・ルーシ(呼び方がそれぞれの言語で異なるが、同じ国のこと)
その領域はこんな感じ👇

キーウ・ルーシ公国領域(ありがたいwikipedia)

この国があったのは9世紀〜13世紀で首都はキーウ。
ロシアはこの国がモンゴルの襲来で崩壊した後に、一部北方に残ったモスクワ公国がキーウ・ルーシの正当な継承国とし、その後、ルーシ(ロシア)と名乗る。
一方、ウクライナ史では西方に残ったハーリチ・ヴォルイニ(1199-1349)こそその正当な継承国であり、キーウ・ルーシはウクライナの祖としている。

ハーリチ・ヴォルイニの領域(wikipedia様様)

ヴォロディミル・ゼレンスキーとウラディミール・プーチン。どちらもキーウ・ルーシの最盛期時代のリーダー、ヴォロディーミル聖公をそれぞれのウクライナ語、ロシア語で言った場合の呼び方なのではないだろうか?

そんなわけで、両国が主張している自国の起源が同じ国となっており、非常に重要な「国の起源」からして歴史観がぶつかっている。

(閑話休題)大国の間で育まれたアイデンティティ

「物語ウクライナの歴史」の第三章「リトアニア・ポーランドの時代」の冒頭を引用させて頂きます。

暗黒と空白の三世紀?
14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、17世紀半ばにコサックがウクライナの中心勢力になるまでの300年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。この間リトアニアとポーランドがウクライナを支配した。しかし、この期間はウクライナにとりまったくの暗黒時代で空白の3世紀であったろうか。
キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全域にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3民族に分化した。分化の一つの要因には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ大公国、ポーランド王国、リトアニア大公国と分割され、それが長期間固定されたことがある。キエフ・ルーシ公国の末期から既に分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語と言うそれぞれ独立した言語になっていった。また「ウクライナ」と言う地名が生まれたのもウクライナの歴史を通じて最もウクライナ的と言えるコサックが生まれたのもこの時期である。その意味からすれば、この時期は、厳しい3世紀ではあったが、同時にウクライナのアイデンティティ形成のために極めて重要な時代であったとも言える。

黒川裕次著「物語 ウクライナの歴史」

地政学上極めて重要な地域で、様々な大国の傘下となってきた歴史を持つウクライナ。そんな中で分化や同一化を繰り返しながら、でも確実にこの地にウクライナと言うアイデンティティが育まれていったよう。その証左として、大国からの独立の試みも繰り返し行われてきた。

1648年、ポーランド帝国傘下で反乱を起こしたフメリニツキーはウクライナにおける英雄にあたるらしい。サポリージャにシーチと呼ばれる要塞を築く武人共同体であるコサックは独立心が強く、ポーランドに対して反発していた。但し、なかなか単独での独立は難しいと考え、オスマン帝国傘下のクリミア・タタール人と組んで、ポーランドをワルシャワまで追い詰めるところまでに至り、ヘトマン国家というコサックの国を設立するに至った。

ただ、それは長続きせず、ポーランドがクリミア・タタールを買収。クリミア・タタールが信頼できないので、妥当ポーランドを目指し、他の他国にも協力を求めたフメリニツキーが1654年に結んだのがモスクワとの協定だった(ペレヤスラフ協定)。しかし、それもフメリニツキーが知らぬうちに、モスクワとポーランドが協定を結び、やがてへトマン国家はポーランドとモスクワに分割統治されることになる。結果的に今に続く、モスクワの介入を受けるようになるのは、この頃がきっかけと見られている。

アイデンティティーの形成という意味では、独立運動は第一世界大戦の頃にも起きている。再び物語ウクライナの歴史の一節(第6章冒頭)から引用する。

第一次世界大戦とロシアのボリシェヴィキ革命は、ロシアおよび東欧の地図をすっかり塗り替えた。ロシアでは帝政が倒れ、ソ連という新しい国家が生まれた。民族自決の原則に従って旧ロシア帝国の支配下にあったリトアニア、ラトヴィア、エストニア、フィンランドのバルト・北欧諸国が独立し、オーストリア・ハンガリー帝国下のポーランド、チェコ・スロヴァキア、ハンガリーも完全独立を果たした。
 
ところがウクライナは独立を達成したこれら諸国に比べても圧倒的に大きなエネルギーを独立運動に投入し、また絶大な犠牲を払った。(中略)それにもかかわらず、独立は束の間の夢に終わり、(中略)この地域でウクライナのみが第一世界大戦、ロシア革命、パリ講和会議の配当を受けなかったことになる。

黒川祐次著 物語 ウクライナの歴史

この時期、ウクライナではロシア支配下で中央ラーダ政府が、オーストリア支配下で西ウクライナ国民共和国が独立するが、結局は大国に潰され、ソ連とポーランドの支配下となる。

続く(2)へ


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