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教師には生徒を「成長させない力」がある


0 教師は生徒を「殺して」いる


「探究学習」が高校に入ってきました。正式には今は移行期間ですが、多くの高校が先行導入し始めています。
ところが、この「探究」が「探究」になっていない学校が多いのが現状です。
探究という名目の調べ学習になっている学校も多く、教師は生徒に「任せている」と言う名の下なんのフィードバックもせず、放任になっていることも少なくありません。
生徒と共に「探究する」という理想とは程遠い現実です。
その結果、最終的な生徒の成果物も悲惨なことになることが多くみられます。
私はそのような結果を目にするたび、いつも悲しくなります。
せっかくできた「探究」という時間が活用されず、放置され、成長しないまま一年を終えた子供達。彼らには一分の罪もありません。
全ては、私たち教師の問題です。


1 教師は生徒を成長させられるか?


教師は生徒を成長させられるのか?
この問いに答えることは簡単ではありません。なぜなら何が「成長」なのかの定義づけが難しいばかりか、仮に成長を定義しそれを計測できたとしても、その成果が「教師の指導によるもの」なのかどうか、相関や因果を特定することはさらに困難だからです。

この問いに一つの事例で答えてみたいと思います。
私は以前、ある高校の男子バスケ部の監督を務めていました。
ある公式戦でのこと。地区大会の試合で、私たちのチームはある学校に62-48という比較的大差で敗戦しました。
その結果私たちは敗者復活戦に回り、県大会の最後の一枠をかけた戦いに挑むことになりました。
ところが、その最後の相手は先の試合で負けたのと同じ相手。その相手との対戦までには1週間の猶予があったため、私たちは前回の対戦の映像を何度も見直し、分析し、戦術を立て直しました。

そして挑んだ県大会出場決定戦。
私たちは同じ相手に20点差をつけて大勝し、県大会への切符をつかむことができました。

この経験は私たちに何を教えてくれるでしょうか?コーチの戦術によってチームが勝てること?そうではありません。それは、「コーチには負けさせる力がある」ということです。
私は、適切な分析と戦術立案と準備をすれば20点差で勝てたはずの相手に、「負けさせてしまっていた」のです。

以来私は、「コーチには負けさせる力がある」ということを肝に銘じるようになりました。
そしてこれは、教育一般においても同じように思うのです。

2 生徒の希望を奪っていないか?

具体的に例を挙げたいと思います。
まずは、「教師が生徒の希望を奪っている」ケースです。
ある地方の学校に練習試合で行った時のこと。
私は審判に入っており、その合間にその学校の生徒たちと雑談していました。

すると、そこにその学校の顧問の先生が来て、こう声をかけました。
「この先生(筆者)は〇〇高校(私の母校。この県では「トップの進学校」という扱いになっている)の出身なんだよ。」

それを聞いた生徒は、
「うわーすごい!私も入りたい!」と笑いながら言いました。

ところが、それを聞いた顧問の先生は
「何言ってるの。無理に決まってるでしょ。恥ずかしいから馬鹿なこと言わないでよ」と言ったのです。

生徒も「すいません」と返し、何も言わなくなりました。
私は衝撃と怒りで言葉を失いました。
試合開始の時間となり、ブザーが鳴りましたが、私は試合を始められませんでした。
私はしゃがみ込み、座っている彼女たちと向き合って、目を見ながらこう言いました。
「無理なんてことはない。もしも本気で行きたいと思ってくれたなら、たくさんべんきょうしないといけないよ。進学校だから行ったほうがいいんじゃない。もしあなたが〇〇高校をいいなと思ったのなら、絶対に目指したほうがいい。俺は応援するよ」と。

残念なことに、このような例は枚挙にいとまがありません。
このような教師の言葉がどれほどの子供たちの希望を奪っているか考えたとき、私はいつも怒りと悲しみで心が苦しくなります。

実際、教育学の分野では「教師期待効果(ピグマリオン効果)」という心理的行動が知られており、教師の期待によって学習者の成績などが向上すると言われています。
ちなみにその反対の効果もあり、教師が期待しないことによって学習者の成績が下がることはゴーレム効果と呼ばれています。


3 生徒の時間を奪っていないか?

二つ目の例は、生徒の時間についてです。
この国では多くの学校が1日6時間×5日間というかなり長い固定された時間、生徒たちを学校に拘束しています。
私立の場合、さらに7時間目や土曜日の午前にも授業があったりします。
今まではこれは当たり前だったかもしれません。
しかし、コロナで休校を余儀なくされ、短縮授業などを続ける学校も多い中、多くの生徒や保護者は気づき始めています。学校でなくても学べることも多いのではないかと。

特に、いわゆる単純なinputであれば、さまざまなサイトやyoutubeなどを使って質の高い、そして時には学校よりも面白い授業に無料でアクセスできます。
それにも関わらず学校が再開され、教育活動が優先的に行われているのは、それでもなお「学校でしかできない学び」(協働的な学び、対話的活動など)があるからであり、だからこそ、依然として子供たちを学校で「拘束して」いるわけです。

ですが、果たしてそのような「学校でこその学び」を教師は提供できているでしょうか?
もし提供できていないのに学校に拘束しているとしたら、それは生徒の成長のための時間を奪っている行為に等しいと、私は思っています。


4 教師の仕事は「生徒の可能性を殺さないこと」

これらの例を踏まえて改めて思います。
私たち教師の最も重要な仕事は「生徒の可能性を殺さないこと」であると。

私は、教育や教師の可能性を否定したいのではありません。
むしろその逆です。
教師には、親の次に長い時間を子供と過ごす大人として、大きな影響力があります。
その言葉が、時に子供の人生を左右します。
私たちが子供に良い教育を施さないことで、子供たちを「成長させない力」があります。

私は教育万能論者です。教育には人を変える力があると信じています。
ただしそれは、正の方向への変化になるとは限らない。
だからこそ、私たちは常に、その力の強さを自覚し、最低限何があっても「生徒の可能性を殺さないこと」に全人格をかけて取り組まなければならないと思っています。

映画『スパイダーマン』でベンおじさんも言っています。「大いなる力には大いなる責任が伴う」と。

私も今まで、何人もの生徒を「殺して」きたに違いありません。
その冷徹な現実から目を背けず、それでもなお、教育の力が生徒を救えると信じて、より良い教育のあり方を生徒と共に探究していきたいと思っています。

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