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Ω「ししゃも」から「人間」へ #僕の履歴書

はじめまして?
お久しぶりです?
こんにちは?こんばんは?

さてどれが正しいでしょうか?

どーも、一平です。ブワッと沢山の記事があるなかで、天文学的確率でたどり着いてくださり本当にありがとうございます。

...

...

...

変態ですよ?

特に食べることに関しては( ̄^ ̄) エッヘン

・プリンはバケツサイズ派です
・生クリームは直接チューブからが新鮮
・一ヶ月ヨーグルトがあれば暮らせます
・昼食はキムチのみでもいいです
・カレー2.0kgを10分58秒で完食

あと95個あるのですが、本当に残念ではありますがスペースの都合上カット致します♪

あとあと、料理にも挑戦してます!!!
現在のレパートリーは

・キムチチャーハン
・黄金チャーハン
・鮭チャーハン
・そうめん
・カニチャーハン

以上の5品です!
お手軽チャーハンレシピ絶賛募集中♪

とまあ、そんなこんなで、とてもじゃないけど父ちゃんのレストランを継げるはずもなく。ただ、ある日突然に、そんな父ちゃんのレストランが最大のピンチを迎えることになりました。

ここから先は僕の生い立ちになります。なが〜くなってしまったので、お時間があるときにでもお読みください♪



料理人の父ちゃんと料理人の母ちゃん、そんな2人の間に僕は生まれました。小さい頃から活発な少年だったようで、よくご近所さんの家の塀に登っていたりで母ちゃんには毎日怒られてばかりだったんですよ♪

で、そこに妹を加えた4人で
仲良く平凡に暮らしてました。

料理人の父ちゃんは土日も仕事でなかなか相手をしてもらえなかったんで、僕は妹と遊んだり殴り合いでケンカしたり、とにかくエネルギーが余りまくってたんです。

そんなある日、父ちゃんがボールを僕にプレゼントしてくれたんです。僕はもう嬉しくて嬉しくて仕方なくて朝から晩まで毎日練習してました。

リフティングを。

父ちゃんの喜ぶ顔が見たくて、とにかく一生懸命練習したんです。近所に友達も少なかった僕は、

「サッカー=リフティング」

だと思ってたんですけどね。

それでも上達するたびにホメられるのが、すごく嬉しかったんです。ニヤニヤしてました。そんな中で本当に漠然とですが、将来はスポーツ選手になりたいなぁと思うようになっていました。

ただ、5歳の頃、

急に左足が動かなくなっちゃいました。すんごく痛くって。それで母ちゃんが本気で心配して病院に連れて行ってくれたんですけど、

「スポーツ選手にはなっちゃダメだよ!」

病院の先生から言われてしまいました。じつは左足の股関節が腐っちゃって。活発な人にごく稀に起こる病気らしく、その病気になってしまったみたいなんです。ペルテス病とかいうらしいです。

「治るけど、再発したら一生車椅子ね」

病院の先生ってサラッと言うから
ほんとに怖いですよね。

人生で初めて持った夢は、努力や結果とは関係なく潰れてしまった。いま思うと、そんな感覚かと思います。ぶっちゃけ意味なんてわかってませんでした。ただその言葉だけはずーっと頭に残ってました。夢ってかなわないものなんだなぁって。足におっきなギブスを身につけて。

で、待ちに待った小学校入学。もともと幼稚園では同学年が5人だけでした。友達100人できるかなとかいう歌は、そんな僕にとって衝撃でした。心から震えましたね。期待に胸を膨らましてたんですよ。足におっきなギブスを身につけて。どうコミュニケーションをとっていいか自分でもびっくりするほど分からなかったんです。

でもいざ同級生を目の前にしたら、何していいか全然わからなくて。だって人間が沢山いるんですもん。名前も顔も覚えられないし、どうコミュニケーションをとっていいか自分でもびっくりするほど分からなかったんです。すっかりイジメの標的にされてしまって。僕の小学校デビューは失敗に終わりました。

おまけにギブスまでつけてたもんだから、すっかりイジメの標的にされてしまって。僕の小学校デビューは失敗に終わりました。

そんな時に父ちゃんが独立開業しました。ちいさな洋食屋さんをオープンしたんです。友達のいない僕は毎日そこにいました。泣きながら飯を食ったり、それを見た父ちゃんにバカにされたり。お前は本当に泣き虫だなって。なんだかんだ楽しかったんですよ。何より、父ちゃんと母ちゃんの笑顔が僕の心をあったかくしてくれてました。

両親がじっさいに経営をしてるんですけど、その洋食屋さんで父ちゃんの料理を食べるのが1番の楽しみになってたんです。肉汁たっぷりのハンバーグとか、お肉ゴロゴロのビーフシチューとか、チーズとろっとろのドリアとか。めっっちゃ美味しいんです。お客さんとかも笑顔でご飯を食べてるし、それに何より、父ちゃんと母ちゃんの笑顔が僕の心をあったかくしてくれてたんですよね。

「心温まる大切な居場所」

そんな気分でした。

でも僕は、毎日泣かされてばかりの日々をなんとか変えたかったんですよね。だから研究をはじめました。強い男とは何たるかを。毎日見てましたよ。ドラゴンボール。フリーザ様の強さにはシビれましたね。気づけば後ろから2番目でした。それでもクラス内には怖い人もいたんで、手を出す勇気はなかったんですけどね。

そしてとうとう仕返しのときが来たんですよ。ギブスの取れるときが。力を解放するときが。その頃には身長も伸びてましたからね、けっこうな力もついてたんです。背の順で前から2番目だった僕が、気づけば後ろから2番目でした。それでもクラス内には怖い人もいたんで、手を出す勇気はなかったんですけどね。

そして女子には、、、

「スカートめくり」

さんざん泣かされてきた相手を泣かすには、もうコレしかないと思ったんです。ほんとに。昔から妹と殴り合いの喧嘩をしては、いつも父ちゃんに怒られていた経験から、女子には手をあげてはいけない。それだけは子供なりに知っていました。まぁ結果として、クラスの女子全員を敵にまわしちゃったんですけどね(笑)

それでも男子の中にはそれを面白がって、仲良くしてくれる人が少しずつ増えました。それがもう嬉しくて嬉しくて。女子たちよ、あの頃はスミマセンでした。いつかお詫びさせてください。

でも、けっきょく繰り返すというか、またイジメの標的になっちゃたんですよね。なんだかんだで高学年のときに。きっかけは給食の頂きますの前に「ししゃも」を食べてしまったという、どうでもいいくらい些細なことでした。身体は成長してても、やっぱり人は、そう簡単には強くはなれないんですよね。

あだ名が「ししゃも」になりました。

で、中学へ進んだ後になってもイジメは終わらなかったんですよ。むしろ、荒れていた小学校の生徒たちも一緒になっちゃったのと、色々と重なって、どんどんエスカレートしていくんです。避けられ、無視されるみたいな感じで。

そんな中で僕はバスケ部に入部しました。

バスケの強豪校だったんですよ。中学校が。で、なんか強い人たちと一緒にいたら、ぼくも強くなれるんじゃないかと思ってました。虎の威を借りようと。情けない話ですよね。ただ、イジメのボス的存在もいたんです。それもかなりバスケが上手いみたいで、部活の中でも超人気者だったんですよね。全てにおいて僕に勝ち目はありません。

でも、始めたバスケは辞めたくないし、なんとかバスケでは勝ちたいなと思って、毎日毎日残って練習してました。上手くなれば僕もアイツみたいに人気者になれるんじゃないかと思って。

で、バッシュとかボールとかって、バスケの道具ってお金がかかるんです。ふつうにバッシュだけで3万円とか。父ちゃんと母ちゃんはお金には厳しくて、お小遣いとか貰えなかったので、必死にお手伝いもしましたよ。だからみんなが使ってるようなカッコイイ道具は買えなかったんです。

それだけのことですが劣等感というか、ヘタクソなのは道具のせいとか思ってました。しまいにはカネをくれない2人のせいだと。

ちょうどそのころ、父ちゃんと母ちゃんの店のことでも結構ネタにされてたんです。店の名前で呼ばれたりとか。だんだんと家が嫌いになってたんです。とくに母ちゃんには強く当たってました。学校でうまくいかないストレスを、感情のままに全てぶつけてたんです。毎日毎日泣かせてばかりでした。でも、学校のことも両親には話せないですし、どうにもできなかったんです。

思春期である2年生になる頃には、完全に口も聞きたくない状態になってました。反抗期だったのもあると思うんですけどね。純粋に親ってウザいとも思ってました。

ただ、親に反発し始めてから、だんだんとイジメもなくなってきて、自分が強くなった気分になれたんです。でも父ちゃんには一言も逆らえませんでした。めちゃくちゃ怖いんです。そんな怖い父ちゃんは、ぼくの将来にもシビアです。

「将来は公務員になれ」

って、ずーっと言っていました。

進路を決める時期になると、プロを目指すという人もいました。ぼくもバスケがすっかり好きになっていたので、本当はプロになりたいと思ってたんです。ヘタクソの分際で恥ずかしかったので誰にも言えなかったけんですけど。でも僕はプロにはなれないんですよね。ドクターストップってやつで無理な話だと思ってました。

他の部員たちが夢を語っていると何だか寂しい気分になりました。ヘラヘラ笑うようにはしていたものの、今ごろになって医者の言った言葉の重みをヒシヒシと感じるようになったんですよね。夢って叶わないんだなぁと。

他にやりたいことがなかった僕は、とりあえず父ちゃんが言うコウムインを目指してみようと思いました。コウムインを目指すために受験する学校も父ちゃんが選んでくれたんですけど、これがまた結構な難関校だったんです。

「とにかく公立に行け!」

と、さらに父ちゃんは言ってました。

必死に勉強しました。部活の引退後には個別指導の塾にも通って毎日毎日頑張って勉強しました。なによりその高校に入れば何かが変わるし、父ちゃんが僕を認めてくれると思ったんです。

その結果、、、

合格できませんでした。ぼく、けっこうバカだったんです。罪悪感しかありませんでした。家計が苦しいと言い続けている中で私立の高校に行くというのが。さらに言うと、それに対して何も咎められないことが。気を遣わせてるんだろうなって思いました。ダメな息子でゴメンって。

で、罪悪感を誤魔化すために、反動で食べる食べる食べる。めっっちゃ食べまくりました。高校に入学するころには、なんと0.1トン間近になってましたね。98キロのスーパーボディの完成です。

かつて憧れていたフリーザ様ではなく、
ドドリアさんになっていました。

そして、高校に入学して初日、僕は高校デビューを果たすべく、沢山の友達を作ろうと企てていました。入学祝いで買った携帯電話を持って。とはいて、なんて話しかけたらいいのかわからなかったんですよね。怖くて。

そうこうウダウダ悩んでいるうちに、クラス内ではグループができあがってて。もともと付属の中学のある学校だったんで、ある程度グループもできちゃってたりもして、またもやデビューに失敗しました。もうね、ぼっちですよ。ぼっち。ぼっちのドドリアさんでした。

クラスの中で何してるかわからない人。休み時間にもずっと席に座ってる人。校外学習で1人だけ余る悲しい人。想像してみてください、それがまさに僕です。日に日に学校に通うのが辛くなっていきました。昔のイジメも確かに辛かったんですけど、誰からも相手にされないのもなかなか辛いんですよ。自分の存在がないみたいで。

だから校外学習や修学旅行なんて最低最悪の行事だったんですよ。当時は本気で行きたくなかったです。でも、そんなこと親には言えないじゃないですか。お金まで用意してもらっている分際で、そんな悩み言えるわけがないですよね。

何をやってても満たされないし、何がしたいのかわからない。毎日がホントに苦痛でした。だんだんその思いは強くなってきて、そのストレスをやっぱり母ちゃんに毎日毎日ぶつけていました。たとえば、ちょっと話しかけられただけでも、うるせー黙れって反発してましたからね。マジウザいなって。何もかもにイライラしてました。悩みを本音で相談する相手もいないから、もう、どうしていいか分からなかった。

そんなカオスな高校時代をすごしていました。

高校卒業後は大学へ進学しました。父ちゃんは相変わらず公務員になれと。そのためには国立の大学に行けと。私立だけはお金がかかるからマジで行かないでくれって。ただ、けっきょく大学受験も失敗しました。地元の国立大学には行けませんでした。わかっていたけど。頭わるいから。

言われた通りに頑張ったのに、けっきょく失敗してしまった。僕はダメなやつ。クズだ。夢は何をしても叶えられない。人から言われたこともできない。何もできないダメなやつなんだ。そう考えるようになっていました。

国立の大学には行けなかったけど、父ちゃんと母ちゃんは喜んでくれて、それが逆に辛かったんですよ。出来の悪い息子でゴメンなさい。そうとしか思えませんでした。何1つ期待に応えてないよねと。だから大学の費用は自分で用意しました。せめてもの償いとして。これだけはと。

同時に、すこし期待してたんです。夢や目標は何もないけど、大学へ行ったら何かが変わるんじゃないか。夢も見つかって落ち着くんじゃないかなと期待してました。もっと頑張ってみようかなって思ってました。

ダメでした。

けっきょく勉強なんて全くしない。毎日毎日あそんでばかりの生活。とりあえず単位の取りやすい授業を探す。周りの人から見たら、他人から見たら充実してるように見えたかもしれません。大学に行くといろんな人がいました。その中でも、夢を追いかける人は、すごくキラキラしてたんですよね。

僕はそんな人たちが大嫌いでした。一緒にいると自分が空っぽに見えるので。真面目に過ごしても失敗するだけ。僕はビビってたんです。それを誤魔化したくて「THE 大学生」になってしまったんですよね。そんな遊んでばかりの生活でも、就活だけは早くから取り組みました。もう試験に落ちるのは嫌だったので。筆記試験の対策だけですが2年生の頃から勉強を始めてました。

早くからの準備のおかげもあって、大手企業から内定もいただきました。全てが順調で勝ち組になった気分。これで正しかったんだと。その時は本気でそう思っていたんです。結局のところ、最終的に入社したのは、終わり間際の合同説明会の出口でチラシを配っていた学校法人でした。人混みが苦手で1社も説明を聞かずに。

正直、僕は浮かれていました。そんなある日、事件は起こったんです。それは一本の電話から始まりました。

「お母さんが倒れた」

妹からの電話でした。

妹から電話が来ることなんてないので、すこし意外でビックリしたんですけど、それ以外に感じることは特にありません。というのも、母ちゃんは高血圧なので、気分が悪くなって救急車を呼ぶことは以前から何度かあったんです。今回もそんな感じなんだろうな。まあ、迎えに行ってやるかと気楽に考えていたわけです。そして、病院に到着して案内されたのは、

ICU

集中治療室でした。

何かの間違いだろ?

僕は病室へと入って行った。そこにいたのは父ちゃんと妹。そして、管に繋がれて眠っている母ちゃんでした。

心電図も動いている。僕は安心した。でも、父ちゃんも妹も暗い顔をしている。

なんでだろう?

そこへ医師がやってくる。

「脳溢血です」

ノウイッケツ?

一刻も早く手術が必要な危険な状態です。ただ、たとえ手術が無事に成功したとしても、右半身は不随となると思います。後遺症です。そのときの覚悟だけはお願いします。

ハンシンフズイ?
ナニイッテルノコノヒト?

ぼくは完全に頭が真っ白になっていました。そんな僕に父ちゃんが語り始める。

「お母さん、薬飲んでなかったんだよ」

母ちゃんは高血圧、それも相当なレベル。薬を飲まないと、血圧が200を超える。生きているのが不思議だとも言われていた。そんな母ちゃんが薬を飲んでいなかった。意味がわからない。

なんで?

店も家計も、ずっと厳しかったんだ。お金についてはお母さんに任せてたんだけど、いつからかは全然わからないんだけど、自分の薬代を生活費に充ててたみたいなんだ。

そんな話、一度も聞いたことがなかった。いつの間にか健康保険まで解約していた。なんでそんな大事なことを相談してくれなかったのか。ほんとに。でも相談なんてできるはずがない。

何も知らない僕は、毎日のように母ちゃんを邪魔者扱いしていたから。中学でも高校でも、帰ってくると、しょっちゅう強く当たっていた。ほんとに泣かせてばかりだった。

脳裏に色々な記憶が蘇ってきた。笑ってる顔、怒ってる顔、泣いてる顔。自然と涙が溢れて、止まらなくなった。そんな時、母ちゃんの目が薄っすらと開いた。

目が合った。

泣いている僕を見た母ちゃんは驚いていた。僕が昔みたいに泣いているからだ。身体を必死に起こそうとしている。でも起こせない。思い通りにならない。わけもわからずパニックになっている。

「アー、アー」

と、言葉にならない声を出しながら必死に何かを伝えようとしている。大丈夫?どうした?とでも言いたげに。じーっと心配そうに、今にも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。

こんな時まで僕の心配をするのか?
どこまで僕を大切にするんだ?
僕はバカだったと、そのとき悔やんだ。

思えばいつも優しかった。

病気で夢を失った僕を、いつも近くで励ましてくれていたのは、ちょっと不器用で優しい母ちゃんだった。そんな母ちゃんを突き放し、ウザいとボロクソ扱い、毎日あたり散らしていた。

僕は自分のことしか考えていなかった。

妹は学校を辞めた。学費として払う分のお金を少しでも生活費に回すために。僕は辞められなかった。内定も決まっている。大学4年生。ここで辞めるわけにはいかなかった。

情けない僕。
無力な僕。
罪悪感しかなかった。

でも、

やりたいことが見つかった。

僕は『母ちゃんを護りたい』

がむしゃらに働いて、家族の生活費、母ちゃんの医療費を稼ぎ、そして真剣に生きることを決意しました。せめて就職までの間は何とか食いつないでいきたい。そんな思いで約1年間のトリプルワークをした。そして迎えた4月。なんとか就職まで辿り着いた。やっと家族を支えることができる。

必死に働いた。7時に家を出て、帰れるのは25時くらい。大変だけど、トリプルワークより全然マシだ。収入も前よりいい。 ちゃんと稼げる。これでようやく母ちゃんを護れるんだ。


今度は父ちゃんが倒れた。


幸いにも命に別条はなかった。極度の過労と糖尿病だった。母ちゃんの介護、仕事、副職、ぜんぶ弱音も吐かずに頑張り続けていた。もともと人に頼らない頑固な人だけど、ほんとうは身体が限界だったみたい。

何より、自分の最愛の人が、そんな状態になったとしたら。父ちゃんが一番辛かったはず。僕はそれにすら気づけなかった。僕ら何も見えていなかった。もっと父ちゃんを気にかけるべきだった。

ずっと2人で続けてきた店は、父ちゃんが守り続けてきた店は、この出来事により突然経営ができなくなってしまった。

僕の大切な思い出の場所。
僕にとって特別な場所。

そんな大事な店が、まさか2人が倒れてなくなってしまう。そんなこと考えたこともなかった。入院費とかもそうだけど、何より実家の収入がなくなってしまって、もうお店を畳もうかどうか。諦めようか。そんなところまで話が進んでいた。

けど、心の底から思ったんです。

『この店を護りたい』って。

なんとか続けられないのかなって。父ちゃんの夢だったんです。店を作ってるときも、開店したときも、お客さんと話してるいときも、料理をしているときも、普段は物静かで顔の怖い父ちゃんがすごく嬉しそうでした。イキイキしてました。

そんな大切な店がなくなってしまったら、父ちゃんはどんな顔をするか。母ちゃんはどんな顔をするか。どう思うか。なにが起こるか。ネガティブなイメージしか僕には出てきませんでした。

ただ、ぼく、料理できなかったんですよね。こんなことが起こるなんて一度も想像したこともなくて。いつまでも2人が店を続けてくれる。何の疑いもなく、そう思っていました。お店を継ぐ準備なんて全然してなかった。僕がお店をまわすってことは、とてもじゃないけど絶対にできない。今から料理の修行するにしても、あまりにも時間がかかりすぎる。それでも店を護りたい。せめて2人が戻ってくるまでは。

僕は店をまわすこと以外で、どうにかして店を護ろうと考えました。父ちゃんと母ちゃんが元気になるまでは、家賃であったり維持費であったり、そういったものは僕が払ったり、それこそ、家族を支えるために稼いで、この状況を何とかしようと思ったんです。

ただ、いろいろ計算してみた結果、月に50万円以上かかるとわかりました。

月に50万円。

サラリーマンのピーク時の平均月収と、ほぼ同じレベルの金額が必要だと。サラリーマンとして30年働いたとして、ようやく得られるか得られないかの金額。20代の僕に稼げる金額じゃない。バイトも始めてどんなに頑張っても、寝ないで頑張っても、月30万が限界でした。

本当の意味で、お先真っ暗でした。生命保険を自分に掛けようとも思いました。でも、僕がいなくなった後で2人はどんな気持ちになるんだろうか心配でした。責任を感じで自殺してしまうかもしれない。鬱になり、家族が不幸になるかもしれないなと。そう思うと、それすらもできず。世の中にはオイシイ話なんて無いんだと実感しました。

とはいえ、僕が働かないと。やれるだけのことは全てやろうと思いました。ただ、当然のごとくお金はまわらなかったんで、足りない分は借金するしかありませんでした。一刻も早く、父ちゃんと母ちゃんにとにかく元気になってほしい。ホント運まかせでした。そのときは。

そんな日々が続く中で、ある日テレビで、20代で自分で事業を起こしている人の特集を、たまたま目にしたんです。

「そんな人がいるの?」

って本気で思いました。よくわからなかったけど一筋の光が見えた気がしたんです。でも、だからと言って何をしたらいいのか。僕には全く分かりません。検討もつきません。学校じゃ何も教えてくれないし、そんな人は友達にもいないし、知り合いに経営者さんもしません。

だから必死に探しました。人づてにもそうですけど、SNSを使ったりもしながら、とにかく色んなところを探しました。本を読んでめちゃめちゃ勉強もしました。それでも状況は全く変わらなかったんです。怪しい投資案件やビジネスの話にも何度も騙されそうになりました。

そんなあるときに教えているという人、ビジネスを教えているといつ人とホントにたまたま会うことができました。僕は必死にお願いしました。

僕はどうしても家族を護りたい。だけど手段がないんです。とにかく家族を護るために教えてくださいって本気で懇願しました。これしか方法はないと思いました。その結果なんとか教われることになりました。もちろんタダではありません。

苦労の連続でした。最初の収入は、たったの7万円でした。あいりん地区の1000円の宿にも泊まりました。4半起きの26時就寝です。それでも本格的にビジネスの世界に参入し、教わったことを必死に実践する中で、サラリーマンのピーク時の平均月収を超えるようになりました。あのときのことは今でも忘れません。嬉し泣きでした。

また、お金を稼ぐ力がついていったことで、自信を持つこともできるようになりました。運だと言われればそうかもしれないです。別にそれでもいいんです。たぶん、僕は運がよかったんだと思います。タイミングや当時のによるところもあると思います。でも、何であれ、僕にとっては人生で始めて報われた成果でした。

僕は幼い頃に夢を失ってしまいました。それでも自分の家族を護ろうと考え、寝る間も惜しんで必死に行動していくうちに、新たな夢も生まれてくるようになりました。この夢たちはこれから自分のチカラで叶えていきます。

かつての僕は、夢は頑張れば叶うものだと素直に思っていました。でも、現実は全然ちがっていました。挫折を何度も経験しました。死にたいと思うこともありました。

でも、

いまの僕が笑顔で生きていられるのは、悩みながらも、たくさんの壁を乗り越えてきたからだと思います。何よりも人生を諦めなかったから。本当の意味で、諦めたら全てが終わる。そんな状況だったこともあると思いますが。

そんな経験を経てきたからこそ、人には無限の可能性があると信じています。ダメダメだった僕自身が変われたんです。あなたは僕よりも遥かに優秀な人だと思います。ただ、その可能性に気づいていない。人生の選択肢を自分で狭めている。

そんな人たちが世の中には本当に多い。その諦めのスタンスが僕らの熱量を奪い、未来を創る子供たちの可能性すらも否定してしまう。かつての僕のように。

「そんな夢を叶えられるのは一握りだけだよ」
「いい大学に行って、いい会社に入るんだよ」
「それが一番幸せなことなんだよ」

みたいに。

毎日暗い顔して仕事に向かう。クタクタになって帰ってくる。仕事の愚痴や不満をぶちまける。そんな大人たちをみて子供達は何を想うか。きっと働く=辛いことになると思います。そして、夢は叶わないものであると。

だからこそ、僕は大人たちから変えることを選びました。自らの夢や目標を語り、イキイキと人生を過ごす。そんな大人たちを増やすことを決意しました。そのために、僕は人の、

「かけがえのない『持ち味』」

これを見出すことに徹底的にこだわります。持ち味というのは置かれている環境によって長所にも短所にもなります。それぐらい濃いものだと思っています。人には誰にでも持ち味があって、活かそう、認めようと力がかかった瞬間から、とてつもないエネルギーが生み出されます。ただ、それは本人にとって一番わかりにくい。

そんな持ち味や価値観を、ちゃんと理解してくれる人がいたら。誰かが認めてくれたら。

「この人のためなら死んでもいい」

そう思うことさえあるんです。ほんとに。

人のコアである持ち味を引き出し、整理し、言語化し、自覚化する。そして、その持ち味を活かして思い切り働ける環境や人生を豊かにするきっかけを提供する。これは僕の使命だと今は思っています。僕は仕事を通じて世の中に訴えたい。持ち味の大切さと、人の無限の可能性を。

「何をそんなに熱くなってるんだよ。」

むかしの僕が聞いたら嘲笑うと思います。正直なところ、失敗ばかりしてきました。かっこ悪いことだらけでした。でも、そんな僕だからこそできることだと思います。僕だからこそ誰よりも人の可能性を信じることができます。

バカにされようが、批判されようが、自分の魂だけは誰にも売り渡さず、信念を持って、ただただ突き進んでいきます。


こ〜んなに長いハナシ、個人的なハナシを最後まで読んでくださり本当に嬉しいです。つい熱くなってしまい、家族や友人など、身近な人にも言えない、そんな話をしてしまいました。

今回は僕の話ばっかりでしたけど、次はぜひアナタのお話をたっぷりと聞かせてくださいね♪

あっ、くれぐれも家族は大切に(^^)


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