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ラオス生活記🇱🇦2

今どんな場所に自分がいるのか想像してみて欲しい。目で見ている景色と実際の景色は本当に一致しているのだろうか。もしかしたら、視覚から手に入れた情報を、頭の中で勝手に編集して脳内では全く違う映像が流れているのではないか。
ふとこんなことを思うときがある。ラオスはまさにそんな土地であった。

前回の記事でも紹介した通り、とにかく何もない国だ。そこに居心地の良さを感じてしまったのは東京という名に埋もれた東京人の本当の姿なのかもしれない。

ラオスも首都から少し離れた中部「ヴァンビエン」に来ていた。
首都ヴィエンチャンから車で4時間程度の場所に存在しているが、その4時間はあまりにも長く感じてしまう。道は舗装されておらず、すぐ隣には崖がそびえ立っている山道を飛ばして進んで行く。バスに乗るだけで、富士急にきたようなそんな感覚になる。何もないラオスが生んだ本当のアトラクションだ。
おかげで溜めておいた動画を見ることもできず、寝るのもままならない。油断をするとケツが浮き上がり、荷物はどこかに動いてしまう。

ただその道中から、私は一種の錯覚に陥っていたのかもしれない。
見渡す限り、そびえ立ついくつもの山。圧倒的な自然の量。窓の外を覗いて見ても、砂埃で見えないこともある。ただ、そこには人間の手が加えられていない本当の地球の姿があるのだ。
きっと私たちの祖先もこのような自然の中で生まれ、不便ながらも必死に生き、そして私たちの世代までバトンを繋いできたのだ。とても感慨深い景色なのだ。

「本当にいま私が見ている景色が、そのままの景色なのか。」また考えていた。
日本人の私だからなのか。いや、周りを見渡すと他の乗客も揃いに揃って外の景色を眺めていた。皆感じるものはあったのだろう。

いざ町についても多少の町はあるものの、発展という言葉には程遠い姿だ。
そんな町にも観光客は少なからずいる。ハノイで出会ったオーストラリア人とこんなところで再会するとは思いもしなかった。
さて、何をしようか。と言っても何もすることのない町に来ているのだから、自然と言う名のガイドに任せて風の吹くままにどこかへ足を運ぶのだ。小さな小さな町だ。一周するのにそんなに時間はいらない。大好きなラオス料理と名物のバインミーを頬張っていると、いつの間にか砂まみれになっていた。照りつける日差しが痛みから心地よさに変わり始めた頃の話だ。

ここ「ヴァンビエン」の唯一と言っていい観光スポットは自然を使ったアトラクションだ。川下りであったり、ジップラインであったり、池であったりだ。

翌日は午前中からバイクで向かうことにした。もう汚れることは目に見えている。ハナから上裸で跨った。道無き道を進む道中。また不思議な景色が目に入って来た。何もない道のはるか遠くに大きくそびえ立つ山。そんな風景など、どこかで見たこともあるような気もしないが。なぜなのか。景色に吸い込まれてしまいそうになってしまう感覚のなのだ。特別山が綺麗なのか。そんなことはない。珍しい草木が生えているのか。そんなこともない。ただ目の前に写っている景色360°が映画や絵画で見た本当の自然そのものでしかないのだ。国があるという事実さえも忘れてしまうそんな景色なのだ。自分がいかに砂にまみれていようと持って来た黒のバッグが白に変わっていようとそこでは溶け込んでしまう。

果たして、今見ている景色は「現実」なのか。

空気が美味しいとはよく考えた言葉だ。普通に考えたらここの空気なんて美味しいはずがない。なぜなら先述しているように道無き道を走るため砂まみれだ。バイクなんて元が何色かよくわからない。少し口を開けば砂だ。これに味をつけろという方がよっぽど難しい。

しかし、なぜか美味しく感じてしまうのだ。

これも脳が勝手に作り出したイメージにすぎないのか。答えを知りたくなったが、今はまだ知らない方が幸せな気がした。そんな空気を思い切り吸い込みながら、また道無き道を走らせた。
その後ろ姿は少し背筋が伸びていたかもしれない。

目的地に着いた。「ブルーラグーン」と言われる川なのか池なのか今だにはっきりしないスポットだ。想像して見て欲しい。何も開拓されていない場所に突如現れるブルーの楽園を。道が険しかったからなのか、それともまた私の脳が勝手に作り上げたものなのか。そこはどこよりも青く光っていた。

自分を騙すのは案外簡単なのかもしれない。いや、今見ている景色、今までの経験、これから先の事、もしかしたら、既にもう騙されているのかもしれない。
私が見たあの山は、あの道は、あの青い池は、もしかすると全く違うものなのかもしれない。

そうならば、騙されたままでいい。人間のイメージとは無限大だ。まだまだ大きな可能性を秘めている。これは日常生活でも同じことが言えるだろう。今見えているものをどう捉えるのか。
案外、簡単に感覚なんて変えられるのかもしれない。

私は気づくと冷たい水の中にいた。夢だったのか。水の色を見てみる。大丈夫。

「青」だ。その先の道も何もない。認識するのにいつもより少し時間がかかったのは今だによくわからない感覚である証拠なのかもしれない。

生まれた時から発展を感じられ、道に困ることもなく、何不自由なく生活できる日本。この便利さがもしかしたら私たちの「想像」を「イメージ」を不自由にしているのかもしれない。

自分自身のイメージや想像はあなたの何かを変えるかもしれない。

あなたの今見ている景色は「現実」と同じ景色ですか。

こう投げかけて記事を締めることにする。
しかし、私が見た景色が、ここに記した事柄が、あの空気の味が、砂の香りが味が「現実」だったかどうかは私は知る由もない。