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アルメニア生活記9🇦🇲

 とうとうアルメニアの生活も終わりが見えて来た。なんだかんだで2週間以上いたこの国にはいつしか親しみを覚えていた。アジア人が少ない地域では良くある差別的なこともなく、おとなしい人々ばかりだが、話しかければ皆親切に助けてくれる。そんなアルメニアの居心地の良さがここまで長い間滞在させたのだと思う。

 さて、そんなアルメニアの最終目的地は「アラヴェルディ」というまたまた辺鄙な町だ。情報も少ないことから、あまり日本人には馴染みのない町なのかもしれない。それはそれで面白そうだから行こう。だいたいそんな感じだ。

 そんなアラベルディはジョージアとの国境に近い場所に存在する。首都エレバンからはマルシュを乗り継いで向かった。どのくらいの時間がかかったのかは忘れてしまったが、そんなに長い時間では無かった。

 マルシュの窓から外を覗いていると、景色がだんだんと消えていく。消えていくという表現があっているのかはわからないが、たくさんの変化のある景色から同じ景色になっていくのだ。決して同じではないのだが、同じ景色に見えてしまう。そんな景色が続いた。そして山をひたすら登っていく。どうだろうか。本当に住む場所がこんな山の上にあるのか。そんなことを思っていると、いつの間にか到着していた。

 見るからに、田舎感満載のこの町。私は早速気に入ってしまった。のどかな町並み。皆木陰で休んでいる。なんて時間がゆっくり進んでいるのだろうか。誰1人重そうな腰をあげようとはしない。そんな雰囲気が好きだ。本日の宿はそのバス停から程ない距離にある。探せど探せど見つからない本日の寝床。困ったもんだ。たまにあるマップとは違う場所に存在する宿。勘弁してくれよと思ったが、近くの住人に聞いたところ「そこだ」と指さされた。見るからに、プレハブ小屋のような場所だったが、よく見ると、2階建ての立派な建物だった。2階部分しか見えてなかった為、誰も住んでいないような小屋に見えてしまった。

 挨拶をしにいくと1階部分は商店になっており、明るいおばちゃんが出迎えてくれた。そして感動のウェルカムドリンク。これがメチャクチャ美味い。思わずお代わりをお願いしてしまった。やはり、相手が明るいとこちらの気分も上がる。人間簡単だなと内心思うが、いざ自分が不機嫌になると、相手に対して明るく振る舞うことはとても難しい。これもまた人間だな。なんて思ってしまった。

 さて、そんな田舎町では町散策をしてみる。歩いてみると、八百屋もあるし、商店もある。「タテヴ」のようによっぽど困ることはなさそうだ。向かう先は世界遺産にも登録されているとかなんとかの教会だか修道院。正直、自然遺産には興味があるが、教会などは覚えていられない。近くにあるそこに向かうと、やはり静粛な空気が流れていた。もちろんキリスト教式に祈りを捧げてリスペクトに配慮した上で入場。入った瞬間に一気に涼しくなる感じがどこの教会にもあるが、ここは特別そう感じた。

 石で作られた教会の内部は全てが青っぽく見える。私の感性で記しているから伝わるかは難しい部分だが、青っぽい内部なのだ。どこか薄暗く、寒くはないが、寒さを感じてしまうような青っぽさ。私は少しだけ今までの教会との違いを感じながら見学していた。
 いくつかの部屋に入っているとどこからか多数の人間の雰囲気を感じる。単に観光に来ているわけではなさそうな雰囲気。そちらに向かってみると、どうやら地元の人間が多く座っている。礼拝の時間ではないと思うのだがと思って中に入ろうとしたが、咄嗟にその足を止めた。よく見ると、それは礼拝ではなく、お葬式に当たるものだった。すすり泣く声。顔をあげることができない者。神父だか牧師の時が止まっているかのような立ち振る舞い。初めて見るその光景に誠に失礼ながら少し興味が湧いてしまった。遠目から、そして内部の人間の視界に入らない位置から覗かせてもらう。皆最後の瞬間に思いを馳せている。その姿は宗教や様式さえ違えど、日本で見るそれとなんら変わりなかった。やはり悲しいものは悲しい。そして死んでしまったら、現世に残っている人間には「この世にはいない」という事実しか残らないのだ。死んだ後に「何」になるとか、天国に行くとか、地獄に行くとか、生まれ変わるとか様々な種類の考えがあるが、やはり残された者の思いは同じみたいだ。それを知れた、見れた。また少しだけ世界の一端を切り取れた気がした。今までの神聖なる建物や礼拝様式、服装や戒律とは違うものがみれた。

 いつの間にか教会の外側にも参列者が多数いた。皆黒っぽい服を着ていた。ジーンズを履いていたり、ラフなのだが、暗い服を着ていた。これもどこか日本のそれと同じように見えた。

 失礼のないようにその場を後にした私たちは、もう1つの目的地に向かうことにした。そこはこの町からさらに山を登っていった場所にある。こちらが世界遺産だったかも知れない。その日のバスは残念ながら全て終了しているとのことだったので、お決まりのタクシーをチャーターすることに。とは言っても、ここの人たちはすぐに相場の値段にしてくれるし、値段も安いので、痛くも痒くもない。山の上までタクシーを走らせる。随分と年季の入った車だが、「メルセデスだ」と誇らしげに言っていたドライバーは可愛らしかった。向かう途中にはキャンディをもらったりもてなしてくれる。共通言語のない他人との距離を縮めるにはいい方法だと思う。なんせ、誰も気分が悪くなることはない。イランのようにひたすらタバコを吸わせてもらったり、途中でティーを頂いたり、水を買ってくれたり、ホテルまで必死に探してくれたりとはいかないが、それでもいい気分になる。どこかの東南アジアの国のように面倒なこともない。あとからとんでもない額を言ってくるわけでもない。そういう面では、この国には多少の余裕があるのだろうか。

 30分もしないうちに到着したのは山の上。途中で気づいてはいたが、景色がまた良い。見た目はシンプルだが堂々とした建物が立っている。ここには多少の観光客もいた。「オッ」と思ったのは大きな建物に一歩入った瞬間だった。確かにキリスト教の宗教観が滲み出ているのだが、今までとは違う落ち着いた雰囲気がある。何があるわけでない。しかし、その空間には人を落ち着かせる見えない何かが存在していた。ぼーっとしているだけで気持ちがいい。そこにイエス・キリストの絵画があったとか、どんな壁の形だったとかそんなものは全く記憶にないのだが、その空間がなぜか落ち着いた。面白いものだ 。だからこそ、現代でも空間建築なるものが存在するのだろう。

 確かにそこには世界遺産と言われても申し分ない立地と、歴史ある建物が存在していた。しかし、その建物の裏では草むらの中で元気にボールを追いかける子供達の姿もあった。皆、建物の方ばかりに目を向けるが、そこに住むものたちのリアルが見えるシチュエーションの方が個人的には好きだ。なんせ世界遺産の敷地内で何人もの子供達がボールを追っかけているのだ。それほどまでに地域に根付いている建物なのだろう。

 さっと観光を済ませ、アラベルディに戻ると、いつものようにスーパーに買い出し。そこではなぜか、店員が貰ったであろうケーキを一切れづつ頂いた。そんな小さな優しさが、好きになる要因なのかも知れない。

 いつものように晩御飯をたらふく食べた後に、別の宿泊者からたくさんのパンとハムとチーズと、色々とたくさん頂いた。なんて優しいアルメニア人。そりゃ太るわけですわ。食べてばかりの毎日だが、日本で美味しいものをたくさん食べたときの幸せとは違う形の幸せが胸の中で溢れていた。

 そしてとうとうアルメニア生活も終焉を迎えることになった。