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芸術家のオートエスノグラフィー #10 〜仏教概念が芸術家に与える影響〜

#9では、中島の制作概念が形成される過程を明らかにしたが、それ以降、「死生観」に基づいて制作を追求してきたことが、同時に仏教に対する考えを深めていくことになっていた。本節では、中島が開催した個展を通して、美術作品が「売れること」と、芸術家として「作りたいもの」との葛藤の間で中島が考え、向き合う過程を記述する。そこで、仏教思想の中の「縁起」という概念が浮かび上がり、中島にとって葛藤を越えるひとつの手段となったということを明らかにする。そして、仏教概念が芸術家に与える影響について触れる。

 伊藤若冲(1716-1800)は、狩野派で絵を学んだ後、さらに自己の表現を追求するために寺社に通い、中国絵画を熱心に模写した。そして、さらなる独自性を求め、山籠りをしながら生涯にわたって絵を描き続けた。若冲は仏教に対して信心深く、京都にある臨済宗相国寺の僧侶大典禅師から「若冲」の名を与えられ、58歳で自らも僧侶となった。若冲作品を分析した村上によると、若冲の作品には臨済宗の影響を見ることができると述べている。「名誉欲、金銭欲、色情欲など俗世への欲を断つという意味では、大きな影響を与えたことが推測される。あるいは、絵画への欲のほかない若冲にとっては、受け入れやすい教えであったのかもしれない。若冲においては、絵画を具として求道の道に入った出家者と位置づけることも可能かと考えられる。」[村上2010, p.11]
 臨済宗は座禅を日常の修行としており、「真実の自己」を追求し、自ら悟りを見つけることを教えとしている。若冲は仏教に帰依したことにより、その生涯を「修行」と位置づけて制作活動をおこなっていた。

 宗派は異なるが、同じく仏教徒である中島について記述する。中島にとって2度目の個展は2012年に、「文字展『煙』(写真1)」と題し開催した。書道作品が19点、その書き損じを使用したコラージュ作品3点、立体作品1点の展示であった。中島にとっての初めての個展会場はケーキ屋と併設されていたが、本節で扱うギャラリーは1階が陶芸作品や民芸品などを販売している雑貨屋の2階のギャラリースペースで、貸しギャラリーとして運営されているギャラリーであった。中島がカルチャーセンターにおいて主宰している子ども絵画教室の生徒の祖母がギャラリーを経営しているという縁で個展を開催することとなった。


(写真1 個展DM)

 その2年前、2010年に開催したグループ展では、書道の展示ではなく立体作品展示をおこなったが、2009年に開催した個展では書道作品のみの展示であったため、「前回の個展で書作品を購入できなかったので今回はと思って来ました。」や「書道作品が見たかったです。」など、書道作品を期待していたという声があった。一方で、書き損じを使用した立体作品に興味を示す声も多く、どちらが自分の表現したいことに合っているのかと悩んでいた。それまでの展覧会で立体作品が売れたことはほとんどなかったが、2009年に開催した始めての個展においては半分以上の作品が売れていたのである。書は立体と違い平面作品であることから、自宅の壁などに飾りやすく売れる可能性があることは理解していた。しかし中島はあくまで立体作家でありたいと考えていた。そういった思いの中、会場の床には書き損じの和紙や画仙紙をコラージュして造形した立体作品を設置し、作品の中心部分に対し照明の光を多く当てることによって、書作品よりも目立つようにし、来場者の目にとまるよう施した。

 個展を「煙」と題した理由は、法晃が僧侶としての仕事をする中で人間の死に直面する機会が増えていったことにある。また、大規模な自然災害により人の命が失われていく無常観を表現したいと考えた。「火葬で煙となる人間の最期の姿をイメージした(中日新聞2012,1/22)」とあるように、一子の死以来、自分が僧侶であることを強く意識していた。中島にとって作品制作をする上で、仏教概念がその根底にあることが、過去の様々な記述やインタビューから読み取ることができる。

 結果として、書道作品が10点売れたことで会期が終了した。会期中に発刊された新聞記事に「僧侶」と掲載されたことによって、仏教に興味がある人が多く訪れていた。その中で、インド旅行を終えて帰国した翌日の新聞の個展記事を見て来たという、初めて会う来場者D氏から、書道作品の依頼を受けることになった。D氏の話を要約すると、起業する直前にどうしてもインドに行って見聞を広めたかったそうだ。ガンジス川を船で渡っていたところ、インド人が凧揚げをしている光景を見ていたら凧の糸が切れ、乗っていた船に凧が落ちてきたそうである。その凧を拾い、凧揚げをしていた人に渡したら、「聖なるガンジス川に落ちた凧糸」ということで、記念にその糸を渡されたとのことであった。そのD氏は凧糸を個展会場に持ち込み中島に見せ、「この糸を画面のどこかに配置して、文字を書いて欲しい。」と依頼してきたのである。その後何度か打ち合わせをし、完成した作品「縁」(写真2)の周りには、凧糸を画面の隅に巻きつけながら「つなぐ」という文字をかたどるよう糊で貼りつけた。

(写真2 ガンジス川の凧糸を使って書いた「縁」)

 芸術家にとって、経済活動の問題は密接不可分の関係である。自分の作品が気に入られ「売れる」ということは非常に喜ばしいことである一方で、本当に「作りたいもの」を何より評価されたいという気持ちが強いことも事実である。「人とつながることで仲間を増やしながら今まで活動してきましたから、売れたいですけど、今は作りたいものを作っています。(WHへのインタビュー2015,11/23)」、「やりたいことができないなら売れなくてもいい。(MTへのインタビュー2015,10/7)」とあるように、売れるものと、作りたいものの間において、芸術家はそれぞれ自分の意思に基づいて活動している。中島にとって、中学生時代から美術は学校教育から逃げる手段であり、いわば現実逃避であり、自らの言葉にならない思いを表象させるための手段であった。そこには、社会や世の中、他者という概念はさほど存在していない。無論、作品が売れるとは考えもせず、売るために作るという発想もなかった。

 しかし、岐阜に帰郷してから、芸術活動と同時進行的におこなっていた僧侶としての活動、仏教思想に根ざしていたことで、自分の表現が人に喜ばれるということに芸術活動をおこなううえで重要な意味があるのではないかと考えるようになっていった。その考えは、中島にとっての芸術家としての制作概念以前に、岐阜での活動を通して、法晃にとって1人の人間としての在り方が出来上がりつつあったからであるとも言える。それは仏教概念である「縁起」思想に通ずるものであったのである。

 浄土真宗の宗祖親鸞は、1173年に京都で生まれ、9歳の春に得度し、比叡山で「生死いづべき道」を求めて修行を積んだ。20年間の修行ののち、自己を突き詰めても悟りに至る道を見出すことができなかった親鸞は比叡山を降り、聖徳太子が建立したとされる京都の六角堂に100日間の参籠をおこなうことになる。参籠95日目に、救世観音から夢告を告げられたことをきっかけに、浄土宗の開祖である法然のもとを訪ね弟子となり、阿弥陀如来の本願を信じ念仏する道を歩むことになる。1207年、法然が開いた浄土教に対する既存仏教教団からの弾圧により、法然は土佐国、親鸞は越後に流罪となった。
 そののちに恵信尼と結婚し、男女6人の子どもをもうけ、在俗のままで念仏の生活を営んだ。流罪から5年後の1211年、罪が解かれた親鸞は越後から関東に赴き布教活動をおこない多くの念仏者を育て、1224年頃、浄土真宗聖典である「教行信証」を著した。関東において20年の教化活動をおこなったのち、親鸞は63歳の頃京都に戻り、教行信証の添削をしながら多くの和讃など書物を著し、1263年90歳にて死去した。その後、息子や弟子により教えは守られ、第8世蓮如(1415-1499)によって大きな発展を遂げ、現在に至る。寺院数において国内最大規模の伝統仏教教団とされている。

 教義の特色について、前門主である第24世大谷光真(1945-)が「阿弥陀如来の本願(救いの働き)を信じ、念仏申して浄土に生まれ、仏に成ることで、専門的な修行や戒律によらず、誰もが救われる教えです。私たちが目指す『念仏して浄土へ生まれ、仏に成る』ということは、私の人生が往生浄土・往生成仏の人生になる、さとりへと向かう人生となることです。阿弥陀仏は、生きとし生けるものをさとりにいたらせたいと願われています。」[大谷2007, p59]と述べている。

 中島法晃は幼少期から度々、「寺は継ぎたくない。」、寺を継ぐことに対する「反発心。(aun2011,12記事)」など、仏教に対する抵抗感を持っていた。20歳で得度してから、「死は悲しくて儚いもの。その人がどういう人生を歩もうが骨になって終わりというあっけないものだと思っていた。(NHKほっとイブニングぎふインタビュー)」と、抵抗感を持ちつつも、少しずつ僧侶としての活動も進めていた。「南無阿弥陀仏」と唱えて死んでいった一子の姿をきっかけに、「どんなふうに生きていくかっていうことを強く思うようになった。(NHKほっとイブニングぎふインタビュー)」そして、「作品のテーマは死を見つめることから『生きること』へとシフトした(aun2011,12記事)」と、「死生観」をコンセプトに制作をはじめることになったのである。中島にとって僧侶としての活動からの気づきが、ダイレクトに作品制作に反映されていることがわかる。


 僧侶としての気づきや学びは、芸術活動だけではない部分でも中島法晃にはたらいている。それは、仏教の基本である「すべての物事はいろいろな間接・直接の原因が寄り集まって成り立っていて、固定的な実体はない、永続する固定的なものはないという考え」[大谷2007, p.21]つまり、「縁起」という仏教概念が、中島法晃の生き方へ大きな示唆を与え続けているといえる。前節でも述べた、人間は1人で生まれ、1人で死んでいく。死ぬ瞬間までは永遠に「今」を生き続けなければならない。人は誰でもいつかは死ぬが、いつ死ぬかは誰にもわからない。それならば、生きている今を懸命に生きる。という死生観の中には、縁起思想が含まれている。

 縁起(梵pratītya-samutpāda)とは、「『縁って起こる過程』を言うのではなく、『縁って起こっている状態』を意味する」[武内1988, p.2]。武内は、「仏教は『人生とは如何なるあり方か』尋ねるもの」であり、過去に遡って、「『どうして起こってきたか』を尋ねる」ものではない。その「如何なるあり方か」の問いに対する答えが「縁起」であり、あらゆるものが様々な縁の上に成り立っているという在り方である。それが私の姿であり、「縁起」である。と述べている。

 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。

顕浄土真実教行証文類(現代語訳)総序p.5

 中島の曽祖父悦道(以下悦道)(1866-1944)は、名古屋の丸田町で光輪寺の道場を設立し、布教活動をおこなっていた。そこで様々な職種の人々と関わった中で、ある画家(氏名不詳)の出会いが悦道に影響を及ぼすことになる。その画家によって描かれた天井画は、現在まで光輪寺に残っている。もうひとつ悦道と画家のエピソードの中で実存しているものとして、光輪寺の蔵に100本以上の掛け軸が残されているということがあげられる。幼少期の法晃は、蔵で基地ごっこやかくれんぼして遊ぶことがあり、それらの美術品を何気なく眺めていた。「貴重なものがあるからいたずらをしてはいけない」と、両親に注意されたことを記憶している。天井画や掛け軸は、悦道の出会いによって得られたものであり、仏教の教えを守り布教をする過程においてのものである。悦道は出会いにおいて、法晃が生まれる何十年も前に「芸術」に触れていたのである。

 遠く過去からの因縁をよろこべ。

顕浄土真実教行証文類(現代語訳)総序p.5

 様々な縁起により、中島は寺院で生まれ、美術に出会い、それを生業とすることになった。「死生観」を制作概念に据えたことも「縁って起こっている状態」であるといえるのではないか。そう結論づけると、中島にとって芸術とは、「生き方」ではなく、「生かされ方」であるのかもしれない。自分の表現が、自分以外の誰かを喜ばせることができるということ。それがさらに制作への原動力につながるということ。様々な葛藤は、芸術家として、人間としての進歩に変換されていく。中島は岐阜において一人の人間として、芸術家像を自己の中で確立しつつあった。

  今回の記事では、家族の死により生命の儚さを目の当たりにしたことをきっかけに制作概念が形成される過程を描いたことで、芸術家が「外的基準のとらわれ」をきっかけとして、様々な要因により自己の制作における考え方を変化させていくということを明らかにした。制作概念の変化は、使用する素材に反映される。中島は制作概念が固定化されるまでに様々な素材を使用した制作を展開してきた。どの素材が自分に合っているかという自己への問いかけであると認識していたが、制作概念の形成により、使用する素材に対する必然性が生まれていくことになったのである。そして、それまで取り組んできたものに対して行き詰まっていたものが、自己の表現を探求する時期であるとされる「内的基準の形成」[横地、岡田2012, p.272]によって自分の問題意識に基づいたテーマへと移行していく。それが中島にとっては家族の死であり、その苦悩の中から「死生観」という制作概念が萌芽したのであった。

 それぞれの芸術家の歩む過程によって、内的基準の形成は多様であり、制作概念は芸術家の数ほど存在するであろう。制作概念は、芸術家の創造性の源泉となるものであり、表現活動の原動力となるものである。芸術家にとっての制作概念は、芸術家自身の問題ではなく、自分以外の他者、社会、世界との関係を築くために形成していかなければならないものである。

 そしてそれは、時に心理的表象によって歴史や、人々の記憶を記録するという可能性を秘めている。日本生まれの画家で、フランスに帰化しレオナール・フジタという洗礼名をもつ藤田嗣治(1886-1968)は、東京美術学校(現東京芸術大学)時代、フランスから輸入され日本で主流となりつつあった印象派[1]に拒否感を覚え、日本で学ぶことはないと決断し渡仏した。パリにおける芸術の自由さ、懐の深さを実感し、美しい乳白色の肌といわれる「すばらしい白の地(grande fond blanche)」と賞賛された独自の技法を編み出したことで、フランスにおいて数々の賞を受賞することとなる。第二次世界大戦中に帰国した藤田は、父嗣章が陸軍一等軍医であったということから、要請を受けて戦争画記録を描くことになった。戦争画は、国民を鼓舞するためのものであると考えられており、協力する姿勢を見せ求められた絵を描いていた。しかし、日本軍が圧倒的に勝利を重ねているものと信じていた藤田であったが、ある軍人からの依頼により、隠されていた日本の敗北の事実を知ることとなる。そして、その軍人からの取材や、戦地への取材を経て、「哈爾哈河畔之戦闘[2]」を描きあげた。しかしその作品は世の中に公開されることはなかった。近藤は、「敗北の事実をひた隠す軍に対し、真実を記録したいと願った荻洲中将の人としての真摯さに藤田の画家としての本能が共鳴し、悲惨な戦争の現実が描き出されたのだろうか。」[近藤2006, p.260]と述べている。

 美術を表現手段としている芸術家は、時に残酷な現実を、写真や言葉でなくよりリアリティをもった美術作品として人々に伝えようとする。その動因を、近藤は芸術家の「本能」という言葉で述べたが、現代の芸術家が「今」を生き続ける限り、おそらくその本能が呼び醒まされる新たな動因、つまり新たな制作概念が今後も現われてくるに違いない。

<参考文献>
・大谷光真(2007)『世の中安穏なれ-現代社会と仏教』中央公論新社
・近藤史人(2006)『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社
・武内紹晃(1988)『縁起と業 −原始仏教から大乗仏教へ−』本願寺出版社
・村上千鶴子(2010)『伊藤若冲という生き方 作品の分析と求道の考察「動植綵絵」を中心に、禅宗、分析心理学の視点から』日本橋学館大学紀要 (9) pp.3-19
・横地早和子、岡田猛(2012)「芸術家」金井壽宏、楠見孝編(2012)『実践知−エキスパートの知性』有斐閣 pp.267-292

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