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芸術家のオートエスノグラフィー #9 〜死生観〜

#8 こちらから

 2004年に帰郷してからの中島は美術の能力を活かす仕事を見つけることができず、教員であった祖母一子(以下一子)や両親などの意向もあり、非常勤講師として美容専門学校や小学校で美術の指導をしていた。さらに、20歳の時に浄土真宗本願寺派で得度したことで、僧侶としても住職の代理でお参りに行ったり、住職とともに通夜や葬式に出かけたりしていた。中島にとっては講師の仕事も寺の仕事もアルバイトのような感覚で、あくまで制作をするための材料費などの資金を稼ぐためという位置付けであった。

 H.アビングは、19世紀の資本主義社会における賃金労働者階級であるプロレタリアートには職業選択の自由がなかったことを引き合いに出し、現代のアーティストには別の職業に就く選択権があり、「多くのアーティストは副業を持っている。それでも、これらの副業において彼らはたいてい未熟であるために、その多くは教育水準を勘案すれば低賃金のままである(将来、アーティストの大部分が魅力的で給料のいい副業を持つことになれば、芸術の経済はもはや無慈悲という言葉で言い表されなくなるだろう)。」[アビング2007, p.475]と述べている。
 少々強引ともとれる言説ではあるが、美術大学を卒業しすぐ正社員として会社に就職をしたことで芸術活動を辞めることになった仲間、知人が何人も存在するし、制作時間を確保するためにアルバイトとして勤めていたが、いつの間にか正社員になって芸術活動を辞めた仲間も存在する。中島にとっても、アビングが述べるように、芸術活動を継続させるためにいくつか副業を持っているが、その職業が芸術家としての中島に大いに影響を与えている。本節ではその中のひとつである、「浄土真宗本願寺派僧侶」の側面について、家族の死に直面した時の回想を交え記述したい。

 中島が帰郷して2年後の2006年9月26日、一子が死去した。両親が共働きであったため、中島は幼い頃より一子と過ごす時間が他の誰より多く、おばあちゃん子として成長した。厳しいばかりであったが、礼儀作法や勉強、友達との接しかたなど学ぶことがたくさんあり、現在までそれが人間形成の礎になっている。大学時代、米や野菜の仕送りを母栄子に頼むと、宅配された段ボールの中には必ず一子からのメッセージ付き色紙(写真1)も一緒に梱包されていた。耳が聞こえづらくなった一子にとってこの色紙が中島へのメッセージとなり、卒業までに何十枚もたまっていった。長期休暇などで帰省すると必ず一子は、「早く帰ってきて寺をやりなさい。」「公務員になりなさい。」と、毎回のように話し、卒業して帰郷してからは、自宅で制作をしていると、「そんな木偶を作ってなんになるんや。おばあにはさっぱりわからん。」と、辛辣な言葉をかけられながらも、ガレージ兼アトリエで中島が制作する姿を誰よりも長い時間見ていた。 


(写真1 一子から送られてきた色紙のメッセージ)

 この頃も、10月に静岡で開催した2人展の作品制作に取り組んでいる最中であった。中島は粘土により造形した作品を石膏型にし、それをFRPに置き換え、着色するという技法で制作を進めていた。言葉にすることができるような制作概念は無く、自己の中にイメージされた造形を具現化するような制作スタンスであった。2007年以降に度々取材を依頼してくれた岐阜の雑誌記者は中島に対し、「こうしたい、ああしたいと思ったらいろんな方面の技術や考え方を吸収し、そのうえで試行錯誤を繰り返していく努力型の人だと思う。(AN氏へのインタビュー2015,12/10)」と語るように、蝋だけでなく様々な素材を試すようになっていた。制作環境が広くなったことで素材の幅が広がっていたといえる。一方で、ひとつの素材を追求している芸術家に対しコンプレックスのようなものを感じていた。  
 デイヴィットらは、

どんなアーティストであっても、何度も直面するジレンマがあります。それは慣れている道具や素材に対して、いつまで固執してよいのか、あるいは新しい可能性をもたらしてくれる道具や材料も試してみるべきではないか、という悩みです。平均的には、若いアーティストほど、さまざまな道具や材料を経験する傾向にあります。一方ベテランのアーティストは、少数の限られた特定の道具と材料を組み合わせて採用する傾向があります。選ばれた道具は、アーティストの行為がより確かなものになるにしたがって、アーティスト自身の精神が拡張したようなものになります。道具を探求することによって、やがて表現するということに道が与えられるのです。[デイヴィット、テッド2011, p112]

・デイヴィット・ベイルズ、テッド・オーランド著 野崎武夫訳(2011)『アーティストのためのハンドブック-制作につきまとう不安との付き合い方』フィルムアート社

と述べている。中島にとって、帰郷してからの2年間は、ひとつの素材に固執せずに盲信的とも言えるほど制作素材を変化させていた。そこには決定的に「制作概念」が欠如していたといえる。

 そういった中、中島は一子に度々愚痴を言われながらも見守られながら制作をしていた。9月半ば、一子の体調が悪くなり、それまで日課であった畑の草むしりを休むようになった。中島が制作しているアトリエを通って畑に行く姿を毎日見ていたということもあり、一子の体調の変化がわかった。父洋晃から「もうおばあさんダメかもしれん。そろそろかもしれん。」と言われていたが、中島にとって一子は、「絶対に死なない、死ぬわけがない存在」であると思っていたので、体調を崩したことは気がかりであったが、「死ぬ」という言葉に対してはさほど気に留めていなかった。中島は僧侶として寺務に携わっていたが、当時はどこかで、「これは俺の仕事だから。」と自らに言い聞かせるように事務的におこなっていたように記憶している。
 経典に描かれている言葉や物語の意味を理解しているわけではなく、仏教を信じているとも言い難い状態であった。なぜなら、20歳で得度した時に学んだ仏教は、中島にとってあくまで座学としての仏教であり、思想であり、言うなれば「哲学入門」のような位置づけであったからである。以降、通夜や葬式などで人の死を目の当たりにすればするほど、人は死んだら灰になって何も残らないのだ。ということに虚しさを感じていた。

 「死ぬわけがない存在」であった一子は間も無く死去した。以下は、この日の出来事について中島が記述した文章であり、1ヶ月後の展覧会会場に掲示したものである。

 その瞬間、俺は離れの自室にいた。母屋にある祖母の部屋から、父の「おばあさんありがとう!」と大きな声で何度も叫ぶ声を聞き、慌てて祖母の部屋に行くと、父が「おばあさん死んでまった」と涙声でつぶやいていた。一緒に看取った伯母が俺の手を掴み祖母の手を握らせた。それが祖母の最期の温もりだった。(中略)祖母が死んだとき、俺は死ぬということがどういうことか分からなくなっていた。「え、どういうこと?死んだ?どうなるの?どういうこと?」何も考えられなかった。画材屋に走り一枚の画用紙を購入し、自宅に帰った。祖母の部屋に行くと、父によって祖母の顔には白い布がかけられていた。いやいや、違うだろ。と、俺はその布を取り、一心不乱に祖母をデッサン(写真2)した。幼い頃の思い出を脳裏に浮かばせないように、ひたすら描いた。寝ているようだった。デッサンの中にもすやすや寝ている祖母がいた。「生きてるみたい」「生きてる」そう思いながらどんどん描き進めていった。数時間デッサンした。俺は鉛筆を置いた。祖母は死んだとわかった。ひたすら描いて、一度離れてそのデッサンを観たときに気づいた。俺の描いているデッサンの中の祖母の顔は、生気のない死んだ顔になっていた。
不思議だと思った。実際の祖母の表情は何も変化していないのに。
祖母は灰になった。それから一ヶ月経つが、今まで毎日必ず同じ時間に同じ場所にいた人間がいなくなったことに強烈な違和感がある。それを感じるほど、心の中に祖母を感じる。
死ぬとは、その人間の形が無くなることなのだろう。そういうことだと、今は思う。
父は、祖母の最期の言葉を聞き、俺に教えてくれた。
「南無阿弥陀仏」そう言って死んでいった。その瞬間、祖母は仏になった。
祖母は仏になった。間違いなくそう思う。

 2人展「いつか帰るところ」掲示文(2006)
(写真2 一子涅槃のデッサン)

 死への拒否感をデッサンに表象させているはずが、中島は自らのデッサンによって一子の死を認識することになった。鉛筆の濃淡、筆跡、モノトーンの色彩すべてが虚しく、一子の死を表象させていたのである。横地らが述べる「内的基準の形成」が中島にとっては一子の死がきっかけであった。それまで取り組んできた芸術活動への行き詰まりを、自分の問題意識に基づいたテーマへと移行する時期であり、横地らによると、内的基準の形成とは、これまで学んできた美術の知識や表現を整理するような活動である。たとえば美術史の学び直しや、巨匠の作品を模写するなどを通して、知識や技能を含めた美術の歴史を自らの視点から捉え直し問題意識を見出していく時期であるとされている。中島は20歳で得度して以降、寺院で使われていた廃蝋や、その時々に出会った彫刻素材、形のイメージを具現化しやすい素材を、制作内容によってその都度変えながら制作を進めていた。制作内容は、中島が美しいと感じたものや、その時作りたいと思ったものを、理論的な根拠がないまま漠然とその時々の衝動に任せて制作することが多かったが、それは東京時代において出品し続けた公募展の落選が続いたことによる焦りがあったからであるといえるかもしれない。

 一子の死の時期は中島にとって、自分には才能がないと思いはじめていた頃であった。しかし、一子の死は、才能の有無とは関係のない部分で中島の情動を揺さぶり、新たに制作の意欲を増幅させることになった。芸術家に対してインタビューを試みた横地らによると、「普遍的な内容の創作ビジョンに沿ってさまざまなアイディアを考え、表現方法を工夫していくことによって、芸術家は自分にとっても他者に取っても意味のあるアート作品を創造することが可能になるのである。(中略)創作ビジョンを意識するようになると、他者のことを考えていながら自分独自のアート表現を実現できるようになる。」[横地、岡田2012, p.281]と、その創作ビジョンの明確化と特徴を分析している。

 これ以降中島は、「死生観」を制作概念に据えることとなった。中島の死生観を表象する言葉として、「人間、生の始めを知らず、死の終わりもわからず、今を永遠に生きるべし。」というものがある。人間は1人で生まれ、1人で死んでいく。死ぬ瞬間までは永遠に「今」を生き続けなければならない。人は誰でもいつかは死ぬが、いつ死ぬかは誰にもわからない。それならば、生きている今を懸命に生きる。中島はそのような意思を一子の墓前に誓った。
 そして美術制作において、刹那性の中にも強さを感じることができる素材を試すこととなる。その中で「和紙」に出会い、一子の最後の表情をデッサンして以来、色を使用することを控えるようになり、トーンが弱い、もしくはモノトーンを使用することとなった。そして、そのモノトーンの中にも多様な色彩を見出すことが可能であると考えた「墨」を使うようになった。

#10 へつづく

<参考文献>
・アビング・H著、山本和弘訳(2007)『金と芸術〜なぜアーティストは貧乏なのか』グラムブックス
・横地早和子、岡田猛(2012)「芸術家」金井壽宏、楠見孝編(2012)『実践知−エキスパートの知性』有斐閣 pp.267-292

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