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芸術家のオートエスノグラフィー #8〜僧侶の都落ち〜

#7 はこちらから

芸術家の「見習い期間中は、これまでのアートの歴史を省みて反復する作業は避けられず、それは有益なことなのです。知的な面からも技術的な面からも、アーティストが築いてきた遺産と良い関係を保つことは、とても賢明なことです。むしろそうしなければ、(中略)アーティストは過去から学べなくなってしまうだけでなく、未来に対しても新しいことを教えられなくなるという、もっと大きな危険が待ち受けています。」[デイヴィット、テッド2011, p88]

 デイヴィット・ベイルズ、テッド・オーランド著 野崎武夫訳(2011)『アーティストのためのハンドブック-制作につきまとう不安との付き合い方』フィルムアート社

 横地ら(2012)は芸術家たちへのインタビューを通して、芸術家として活動を始めた当初に手がけた作品シリーズが変化するまでの期間は平均で約4年間であり、その間は「既存の美術表現や知識の枠内で創作を進める傾向が見られる」と述べ、その期間を「外的基準へのとらわれ」[横地、岡田2012, p.269]としている。

 法晃は2002年に東京芸術大学を卒業したのち約4年間は卒業制作と同じく蝋を素材(写真1)として制作していた。卒業制作展で蝋を素材とした作品が他になかったということや、当時の彫刻素材としては珍しい素材であると言われた経験から、「誰もやっていないなら成功するチャンスがあるかもしれない」と、継続して取り組んでいた。大学を卒業してからはアトリエがなかったため、アパートの一角を利用して制作をしていたが、ガスコンロを使用していたため、蝋を熔かす時の煙が換気口から漏れていると近隣住民から苦情を受け、大家さんからの退去勧告を2回経験し、卒業してから2年間で2度の引越しを余儀なくされた。

(写真1 モヒカンノン)

 その間、法晃は東京都が主宰する現代美術作品の公募展や、岡本太郎現代芸術賞、洞爺村国際彫刻ビエンナーレなど、2年間で5回ほど公募展に出品するもいずれも選外。

 そんな2年の間、祖母一子から毎月、毎週のようにアパートに手紙が届いた。内容は、「早く岐阜に戻ってきて」というものだった。大学を卒業しても就職をせずアルバイトをしながら作品制作をするという生活に対して、心配に思うのも無理はない。当時の法晃には、岐阜に帰るという選択肢は頭に無かったが、大学の同期の大学院修了展を観に久しぶりに芸大に訪れた時に、岐阜に戻ることを決意することになった。
 大学の同期で院に進学した仲間と法晃との決定的な違いは何か。岐阜に帰ることを決意するに至った理由は何か。それは、「アトリエ環境の違い」であった。作品の大きさはアトリエの広さに比例することが多い。6畳のアパートで高さ3mの作品を作ることは難しい。法晃は2年間アパートで実験的に小作品の制作を続けていたが、常に大作を作りたいという欲求をもっていた。一方で、彫刻にこだわる必要性がないのではと、頭の中にぼんやりと浮かんでいた。

 そんな中、卒業制作を観に来てくれたある人物から、「お寺さんなら書とかも達筆なの?もし書けるなら書いて欲しい文字がある。」と声をかけられた。叔母が書道家であり、中島は3歳頃から叔母が主宰する習字教室に通っており、筆で字を書くことは好きであった。書筆を持つのは中学生ぶりぐらいであったが、いざ書いてみると楽しくスイスイと筆が進んだ。
 これまで、時間をかけて立体作品を制作することが当たり前であった中島にとって、一瞬の筆の動きで出来上がる形がとても魅力的に感じた。書にクリエイティビティを感じたわけではなく、文字をモチーフとして捉えてクロッキーのように腕を動かすことがただ単純に楽しかった。その時の文字がポスター(写真2)となり、世の中の人の目に少しでも触れたことを実感した経験は、それ以降の中島にとって大きな影響を与えることになった。

(写真2 椎名林檎氏武道館公演ポスター)

 公募展に応募しても成果が上がらず、大学時代の仲間との差を痛感し、さらに制作環境に限界を感じたこともあり、故郷である岐阜に戻ることを決断した。

#9 へつづく

参考文献
・横地早和子、岡田猛(2012)「芸術家」金井壽宏、楠見孝編(2012)『実践知−エキスパートの知性』有斐閣 pp.267-292

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