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“常識”ってなんですか?

こんにちは。なかのたいです。

常識。
じょうしき
ジョウシキ・・・?

よく聞くけど、「じゃあ説明して」と言われるとパッと出てくる人は少ない・・・そんな言葉ではないでしょうか。

ある辞書にはこんな感じで書いています。

“健全な一般人が共通に持っている、または持つべき普通の知識や思慮分別”

・・・ん?

一般人が・・・?
共通に・・・?
普通の・・・?

だからそれはなんなんですか?
と、更に突っ込みたくなるような説明がネットでは多く出てきます。

そういう時、私はよく “言葉を自分で定義する” ということをよくしています。

前段が長くなり恐縮ですが、今日は、“常識”という言葉をどう解釈し、どう人生に活かしているのかを書きます。

※はじめに断りを入れておきますが、これはあくまで私のいち考えであり、正解でもなければ不正解にも成り得ないものなので、俺の方が正しいんだとただマウント取りたいだけの人は、それはそれで自由にしてください。


“常識”とは

まず結論から述べます。
私が考える “常識” とは、

『その瞬間における、ある一定のコミュニティ内の、多数派意見』

です。
どういう意味か説明していきます。

この解釈を通して伝えたいことは、
“常識”とは、いわゆる“数学の正解”のような絶対的な答えがあるわけではなく、時代や場所によって変わるもので、その中の“常識”というのも、多数派の意見なだけで、別にそれが“正解”というわけではないんですよ
ということです。

少し詳しく見ていきます。

まず、“その瞬間における”ですが、これは時間軸の話をしています。
例えば、今パッと浮かぶ常識っぽいものを考えます。

『人を殺してはいけない』 ぐらいがいいでしょう。

じゃあ時代を変えてみます。

江戸時代、第二次世界大戦・・・
その時代に生きていたわけではないので詳しくは知りませんが、『人を殺せ!』のような指示が出ていたのはないでしょうか。

というように、現代の“常識”は数十年、数百年という一瞬によって真逆に近い考えになってます。

これが、“その瞬間における” の説明です。


では次に、“ある一定のコミュニティ内の”を考えます。

これは至って簡単です。

日本人は箸を使って食事をする(すべての食べ物というわけではない)のが常識とされているが、そもそも世界で箸を使う文化はどちらかというとマイナーで、世界規模で見た時には30%以下のようです。

これを見るだけでも、常識とはある一定のコミュニティ内のお話なだけで、別のコミュニティ、またはもっと大きなコミュニティで考えた時には一瞬にして常識ではなくなることがわかるかと思います。

これが、“ある一定のコミュニティ内の” の説明です。

こう考えるだけでも、“常識”というのは”普遍的な正解”という性質を持っているものではなく、瞬間的・局所的なお話であることが分かります。


ここまでが私が考える“常識”の説明ですが、では逆に、こういう風に捉えてはいけないというパターンを見ていきましょう。


常識の間違った捉え方

“間違った”というと言いすぎかもしれませんが、個人的に、「人生損しそうだな~」と思う状態を紹介します。

■その1

『多数派の意見を普遍的な正解だと思い込み、自分自身ではなく全く利害関係のない赤の他人に自分の人生の意思決定を任せてしまっている状態』

こう書くとちょっとわかりづらいですが、
例えば、「周り全員ビールだし、とりあえずビール頼んでおこうか」
みたいなもんです。

この程度だと、人生にほぼほぼ影響はありませんし、逆に空気が読めるぐらいのプラスに働くかもしれません。

ですが、こういうのはどうでしょうか。

  • 本当は革職人になりたいが、この年齢からは遅いから諦めよう

  • 本当は音楽の道に進みたいが、普通に会社員になるのが常識だからそうしよう

  • 本当は転職したいが、1年以内の転職は忍耐力のないやつだと思われそうだからやめておこう

はい、もったいないです。
誰の人生ですか?自分の人生を誰に意思決定させてるんですか?

これがまさに
『多数派の意見を普遍的な正解だと思い込み、自分自身ではなく全く利害関係のない赤の他人に自分の人生の意思決定を任せてしまっている状態』
です。

じゃあ、なんでも好き勝手やるのが正解か?というとそれはまた別の論点になりますが、ここでは、“意思決定を誰に任せているか?”が重要なポイントです。

色々熟考した上でいろいろ断念するのはいいかと思います。
ですが、誰が言ったかもわからない、勝手にこれが多数派だろうと思い込んでいるものに従うのは、誰も得をしませんし、もっと言うと、『自分の人生に責任を持ってなさすぎ』です。

そうです。
ここで伝えたいことは、自分自身がもっと自分の人生に向き合いましょうということです。


■その2

これは結構自分で気づくことすら難しいかもしれないですが、
『潜在意識に刷り込まれすぎて、それが常識とすら認識していないが、勝手にその行動をとってしまっている状態』
です。

これも文字列を見ただけではパッと見よくわかりませんが、例として私が以前から疑問に思っている “就活の時期” をあげてみます。

就活の時期の詳しいことはよくわかってませんが、
私が21歳ぐらいの時、大学に行っている友人と話していると、
「就活の時期か~、そろそろ動き始めないと」言う人がいました。
その人に、「そんなに社会人になりたいん!?」と聞くと、
「いや~、就活の時期だしみんな動き始めるから動かないと」
との返答が返ってきました。

まさにこれです。

就職をするということについて、そこには本人の意思すらありません。
さっきのは、「本当は○○がしたいが・・・」と意思がありましたが、今回は本人の意思すらありません。

本当に人間でしょうか・・・?

まあ、これは言い過ぎですが、こういう、当たり前すぎて違和感すら感じないものに勝手に動かされているケースもあります。

これは冒頭述べたように気づくことすら難しいかもしれませんが、別の記事に疑問を持つ方法について書いていますので、参考になるかもしれません。

こういう潜在的に刷り込まれていることに気づけて、それも踏まえた上で自分自身と向き合うことができれば、より視野が広くなり、自分で意思決定できる範囲が増え、人生が少しは楽しくなるんじゃないかな~と思います。


まとめ

今回は“常識”という言葉について・・・というような書き出しをしましたが、別に常識がどうとか、常識という言葉がどうとかはどうでもよく、伝えたいことは、
『自分の人生に責任をもって自分自身で向き合いましょう』
ということですね。

私がこれを考えていたのは、10年以上前の高校生の時で、夜行バスで大阪から東京に向かう、夜中のバスの中でした。

当時私は、高校を出てそのままプロ野球選手になる道を選ぼうとしていましたが、高校の偏差値が70を超えているせいか、

「この高校来たからには大学に行くのが常識だ」
「普通、進学するでしょ」
「この高校からプロ野球選手なるのは選択を間違っている」

など、親・先生・友達の全員が反対していたのではないかというぐらい賛同者はいませんでした。

その時に一人でよく、
「常識ってなに?」
「正解ってなに?」
「普通ってなに?」
「当たり前ってなに?」
と考えていました。

というのも、
状況的には圧倒的にマイノリティでありながら、自分の中では、
「自分のやりたいことに真摯に向き合って、その覚悟を持って人生歩むのが正解じゃないか?周りが全員間違えてるんだ」
と思っていました(笑)(今思えばだいぶとがってますが)

その時になんとなく考えていた内容です。
『このご時世、この学校において、大学に行くのが当たり前という風に、大多数の人が間違ったことを思い込まされているだけじゃないか?』
みたいな感じです。

今でも大枠の考えはそんなに変わってない気がします。


これは私が完璧にできているかというとそうではなく、自分への戒めも込めて書いているつもりです。

自分の人生に責任をもって生きていきましょう。

とはいえ何でもありというわけではありませんが。

その辺は常識の範囲内で考えてください(笑)


おわり。

他にも、仕事や生きる上で役立つ考え方に関する記事を書いています。
ご興味のある方はどうぞ。

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