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【短編小説】 しろくまになりたい 【百合】

 しろくまになりたい。
 …といっても、生き物のしろくまではなく、人間のしろくまだ。
 いや、生き物のしろくまにもなりたいかもしれない。
 そんなことを考えながら、なんだか痛々しい色をしたよく分からない横文字のお酒をぐいっと煽った。大して度数が強いお酒ではないはずだが、身体がカーッと熱くなってフラフラするような感覚が私を襲った。
 ここは、都内某所の商業施設の屋上に併設された水族館内にあるバーだ。海の生き物に囲まれながら、軽い食事とお酒が楽しめる。照明は水族館ということもあり、ほの暗く設定されていて、落ち着いた雰囲気で、まるで海底にいるかのような気分が味わえる。現に、このバーの名前は「海底」だ。目の前にはしろくまプールがあり、しろくまが泳いだり、岩場を歩いたりしている様子が観察出来る。
 私は、自分の職場と家の中間地点にこの水族館があるのをいいことに、年間パスポートを購入し、仕事が終わっては毎日のようにこの「海底」に寄っては、しろくまを眺めている。
 そして、私がこの「海底」に通う理由は、しろくまであり、しろくまではなかった。
 私の趣味は珍名を調べ、ノートにメモすること。小さい頃から珍名や難読名字に憧れてきた。珍しい名字や読めない名字があると、読み方を調べ、「名字ノート」にメモしては眺めてきた。大人になった今でも飽きることなく、常に珍名を求めている。ノートには珍名が溢れ、珍名のデパートのようだ。
 そんなことをしている私の名前は、「高橋あかり」という。何もかもが平凡な名前だと、言ったり書いたりするたびにうんざりする。「高橋」なんかは、あの「田中」を抑えて日本で三番目に多い名字だし、それに加えて下の名前が「あかり」なんて!余りにも普通だ。例えば、もし「雲母」という名字だったら「あかり」という名前ももっと輝いたのに、と思う。
 そんな私は、ある時、出会ってしまったのだった。この「海底」で、一際輝く名前に。私は見逃さなかった。カウンター越しにお酒を出してくれたお姉さんの、胸元に付けられた名札に書かれた文字を。
 そこには確かに、こう書かれていたのだ。
 …「白熊」と。
 私は思わず、名札を指差しながら立ち上がって叫んだ。
「しろくま!!!」
 しろくま、と突然叫ばれたお姉さんは、困ったように、
「はい、しろくま、です」
 と笑ったのだった。
 そんなこんなで白熊さんと出会った私は、白熊さんと話すために「海底」へと足繁く通うようになった。「白熊さん」と口に出して呼ぶたびにわくわくして、なんてかわいいんだろうと感動する。白熊さんは、名字だけではなく、フルネームも素晴らしくて、「白熊深雪」さんという。白熊が雪の中で佇み、じっ…とこちらを見てくる姿が浮かんでくるようだ。
 その白熊さんは、今、私をじっ…と見つめている。
「高橋さん、どうしたんですか?ボーっとして」
「あ、いや、白熊さんって名前、やっぱりいいよねえ…と思って…水族館で働いてるってのも含めて最高だよ!シチュ完璧!」
「…はあ…もう…またその話ですか?高橋さんと会ってから今日まで毎日のように聞いてます。そのセリフ。」
「あれ?そうでしたっけ?…まあ、ほら、それだけ白熊さんの名前が素敵で、大好きだってことだよ!」
「…む…それも毎日のように聞いてます…けど、まあいいです。名前を褒められること自体は悪い気しないですし、わたしの名前のおかげでお店の売上にも貢献してもらってますしね…はい、いつもの、お待たせしました」
「わー!ありがとうございます!今日も美味しそう!」
 いつもの、とは「海底」の「ペンギン印の南極オムライス」だ。私は、ほぼ毎回このメニューを頼んで、仕事終わりの空きっ腹を満たしてから帰宅している。特にオムライスが好きとかではなく、ペンギンの形になっているのがかわいいのと、これだけは間違いなく白熊さんが目の前で調理してくれるので、その間はさっきのような他愛もない会話が出来て嬉しいから、というのが理由だ。それに、何の変哲もない白いご飯が、ペンギンの形になっていく工程も面白いし、「白熊がペンギンを作っている」なんて、字面が最高だ。
「海底」に通い始めて数ヶ月、白熊さんについて、いろんなことを知ることが出来た。水族館と料理が好きで、ここで働いてること、田舎から出て来て一人暮らししながら、近くの大学に通っていること、昔は名字で珍しがられることがちょっと嫌だったこととか…。最後のことを聞いた時は、慌てて謝ったが、「高橋さんは本気だということが分かったので…」と笑ってくれた。私から見て、いや世間から見ても、白熊さんはかなり美人だと思う。涼やかな目元が印象的で、白熊だけど、艶々とした黒髪を一つに束ねていて、ふわふわではなくどちらかというとキリッとしている。高級料亭の若女将、といった感じだろうか。歳はそんなに離れていないとはいえ、仕事に疲れたよれよれのOLとは違う訳だ。
 そんな白熊さんに見つめられながら、私はペンギンをどうにか崩さないように出来ないものかと考えつつ、もぐもぐ食べていく。
「…高橋さんは、どうして珍名が好きなんですか」
「え…前も言ったかもだけど…わくわくするから!私の名前にはない輝きがあって、驚きがあって謎があるから」
「…なれるなら、白熊になりたいですか?」
「ん?そりゃもちろん!そりゃなりたいよ!…あーあ、白熊さん、って呼ばれてみたいな。きっと、素敵だよ!」
「そんないいものじゃありませんよ」
「そうかなあ…少なくとも、白熊さんの名前を呼んでる時、幸せな気持ちになるよ?」
「…まあ、なればわかります」
「うーん……じゃあ、神さま!来世は白熊にしてください!、なんて、どう?」
「もしかして、酔っ払ってます?…ほら、明日も仕事でしょう?それに、もうすぐ閉館ですから、早く食べちゃってくださいね」
「ちぇ、わかりましたあ、食べますよお」
 白熊さんに急かされ、食事を再開しようとオムライスへと視線を落とした。
 話している間に少し冷めて崩れたペンギンオムライスは、最早ペンギンの形を留めていなかった。

***

最初は変な人だと思った。
 名札を見るなり、人の名前を叫ぶなんて。
 そして、こうも思った。「…ああ、またか」と。
「白熊」なんて厄介な名字に産まれてしまったばかりに、いつも面白半分に名字をいじられて生きてきた。正直うんざりしていた。この名字が役に立つのは、そんなに興味がない相手との会話で、その話題さえしておけば、場が持つ上にそれ以上深い話題にならなくて済むくらいのものだ。
 でも、高橋さんは違った。話を聞いてる内に、決して茶化してる訳ではなく、本気で珍名に向き合い、本気で「白熊」という名字に向き合い、憧れていることが分かった。毎日毎日、「海底」に来ては、わたしの名前の素晴らしさを熱弁し、「白熊になりたい!」と真っ直ぐにこちらを見つめて来た。彼女は、「輝きたい」ともよく言っていた。わたしからすれば、珍名について真剣に語る彼女は、十分輝いていたし、「高橋あかり」という名前が心底羨ましかったけれど。
 彼女の熱に、わたしは気付けば浮かされてしまった。彼女が「白熊さん」とわたしを呼ぶたびに、「白熊」という名字が好きになっていった。いつしか、まるでわたし自身が愛されているかのように感じていた。
 …でも、そうではなかった。
 彼女が愛しているのは、「わたし」ではなく「白熊」という名字なのだ。
 わたしたちは、ないものねだりだ。
 高橋さん、わたしは、高橋さんになりたい。
 …名字じゃなくて、わたしを見てほしいよ。

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