"本能寺の変"同日同時刻に亀山城から本能寺を足軽装束で行軍してみた(1) ~事件は現場で起きている~
今年の大河ドラマの主人公は明智光秀。資料がほとんど残っていないので謎に包まれている明智光秀の生涯。最大の見せ場は"本能寺の変"だろう。なぜ主君の織田信長を裏切って殺したのかは、日本史上の最大の謎とも言われている。
資料は少なく証言者は既にこの世には居ない(当たり前だ)のだが、"本能寺の変"が起こったのは事実だ。天正10年6月2日の早朝、京の都の本能寺は明智光秀の軍勢によって燃やされ、織田信長は殺害された(又は行方不明になった)。犯行の動機を知るには、反抗者と同じ行動をとって再現してみるのが一番だ。現場検証は操作の基本。事件は机上ではなく現場で起きているのだ!
まずは資料を見てみよう
まずは資料を見てみよう。状況の整理は必要だ。現場である本能寺の発掘調査を行った京都市埋蔵文化財研究所を訪れた。
ちょうど大河ドラマの放映に合わせて、研究所の運営する京都市考古資料館で、亀山城と本能寺からの出土物の一般展示を行っている。
本能寺跡から発掘されたのは、瓦や土壁のかけら、鍋などの破片など。当時の書体で書かれた"能"の文字が入る瓦は何かの本で見たことがある! でもここから分かることは...当然だが焼け落ちたという事実だけだ。
当時の京の街並み
本能寺の変の発生当時の京の都の様子が分かる地図の展示が有った。応仁の乱の後に京は荒れ果てたが、織田信長の入洛以降に治安は回復されたとは知っていた。だがやはり現在の京都と比べると、街並みは大幅に小さかったのだ。上京(今出川通以北)と下京(三条通以南)に町並みは分かれていて、その間は応仁の乱後も再興されること無く荒れ地のままだった様子が地図からわかる。
↓ 本能寺の乱当時の京の都
緑:寺域、青:城砦、黄:町域、赤:宮域
地図上で青色の部分は城砦を表している。上京と下京の二つの街並みの間にひときわ大きい城郭が有るのが分かる。これが当時の二条城で、現存する江戸時代に建てられた二条城よりも東北、現在の烏丸丸太町のあたり、天皇の居る内裏(地図上の赤い部分)のすぐ南に有った。
そして今回注目の本能寺は、下京の街並みの西北部分(現在の四条堀川を東に上がったあたり)に有った。寺域を表す緑色ではなく、城砦を表す青色で塗られていることからも分かるように、寺と言うより小規模の城のようなものだったのだ。
本能寺の変の発生時、二条城には織田信長の長男の信忠が滞在していた。明智光秀は本能寺を襲った後に二条城を攻撃し、織田信忠も亡くなっている。
ちなみに変の前日、信長と信忠は本能寺で夜遅くまで一緒に食事を取っている。宴が終わったのは深夜でその後に信忠は二条城に戻っている。信長が床についたのは深夜と言うより明け方4時くらいだったのではと言われている。
本能寺の変は明け方に起こった。寝込みを襲う奇襲だったことは分かるが、1万人を超える軍勢が京の街を歩いていればさすがに誰かは気付くのではと思っていたが、当時の本能寺も二条城も町外れに有ったのだ。町の西の外れにあった本能寺に、西側から襲ったのだ。確かにこの立地ならば灯をともさずに近づいたならば気付かれないのかもしれない。
本能寺の立地と当時の情景はつかめてきた。ではなぜその日の様子はどのようなものだったのだろうか。
【その2「新月の夜」へつづく】
【目次:明智光秀の謎】
『本能寺の変』を調査する|京都市埋蔵文化財研究所
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza204.pdf
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