追体験
あの頃、私はいくつものちいさな恋を抱えていた。
あすと長町。当時は、一昔前のベッドタウンから近未来的な中核都市へと現在進行形で進化するちょっとニッチなエリアだった。今の長町を私は知らない。
JRなら一駅、地下鉄だと数駅で辿り着く杜の都に、週五日通った。地下鉄は高いので、いつからかJR一本になった。これは、満員電車を避けられないということと同義である。単語帳を眺めながら、当然のごとく通学・通勤ラッシュの時間帯を知らん顔でやり過ごすいつもの朝。東京出身だったり上京したことがあったりする方々はこの話をしても口をそろえて「仙台の比じゃない」とおっしゃるが、某路線某区間の車内人口密度は東京のそれに勝るとも劣らない。別に勝ち負けの話ではなく、ドアが開くたびに人がこぼれるほどの満員電車は意外と地方都市にも存在するという興味深い事実の一つとして紹介したまでだ。
専らひとりでフラフラと歩きまわるのが好きだった私は、その絶好の一年間を余すところなく味わい尽くした。何処へでも、ふと行きたくなった時にふらっと出かけては、目と耳と舌を喜ばせていた。
好きな行事は沢山あったが、中でも定禅寺ストリートジャズフェスティバルは自分の中で別格であった。町中が音のごちそうに包まれ、耳もお腹もいっぱいになる秋の贅沢なひととき。ひとり、ただあてもなく街をうろついては道々に出会う新しい音楽、懐かしい音楽に心躍らせた。あんなにもワクワクする空間は、他にはなかった。今思えば笑えるが、惨めな気持ちになる一人ぼっちの光のページェントよりずっと良かった。今よりも、もっとちっぽけな私がそこにいた。
毎朝の目的地数百メートル手前の路地角にあるキルフェボンには、そりゃあほんの少しの憧れと夢を抱いていなかったといえば嘘になるが、しかし、それよりも、ちょっと地方くさくて路地裏の香りのする独特のグルメや雑貨店などを好んだ。独り歩きは自由気ままである。立ち寄る先々で店主や常連客、自分と同じような新顔たちとの会話も弾む。私は自由だった。人生で初めての自由を謳歌していた。多分、だから、心のタガが外れたその一年は、私を変えた。あるいはむしろ、本来の私を取り戻したのかもしれない。
眼科の帰りに寄ったおにぎりやのおにぎり、食べそびれた。行くたびに休業日と重なる。そんなこともあるよな。代わりにどこにでもあるミニストップで甘い氷を買って行儀悪く食べ歩きした。
一番足繁く通ったのは、パチンコ屋の地下にあるあの店だった。煙草臭いその通路を鼻息止めて小走りする瞬間さえ愛おしかった。受動喫煙なんかよりも、ずんだコッペを食べられない土曜日の方が耐えられなかったらしい。
去ることが決まったその日、隣町の大きな公園のど真ん中で、午前中の少し涼しくも日に照らされたベンチにもたれて、眠れなくなる宇宙の話を読んでいた。部屋で黙って微分積分の問題を解くよりも、ずっと心が落ち着くから。私はその街を去ることを確信していた。泣きそうな心は、去ることを求めて泣いていたのかもしれない。去ることを祈っていた。
あの街に恋をしていた。あの街を見つめていた。
自分の将来なんて本当はあまり考えていなくて、ただ目の前にあるゴールを突破することしか頭になくて、それ以外はただ、あの街に夢中だった。勉強なんて手につかなかった。自由は突然やってくる。受験を一回失敗した私は笑っていた。心底笑顔だった。足取りは軽かった。
不思議なことに、その街に留まりたいとは思わなかった。ただの一度も。ただ、毎日を目いっぱい楽しんでいた。目に入るものすべてが躍動に溢れて見えた。自分が躍動しているのか、街が躍動しているのか、見当がつかなかった。それくらいその街に溶け込んでいると思い込みたいだけだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
自由のようで自由じゃなった。囚われの身であることに気付かずにかごの中を体いっぱい一生懸命に踊る小鳥に既視感を覚える。なんて小粋な体験はないけれど、私は確実にあの街を愛していて、でも、離れることに寂しさを感じなかった。
自由だと思っていたそれは、現実逃避の中で生まれた幻想であり幻覚であった。でもその幻は私に本物の自由を追体験させてくれた。本物じゃないそれは、自由を知るのにちょうどよかった。本当の自由を手に入れるのはその直後だったから。
最寄り駅に併設するショッピングエリアのスーパーは、小金持ちをターゲットにした”ちょっと良い”スーパーであった。八百屋のお兄さんは元気だろうか。きっと同じくらいの年頃だった。何となく気になっていたその人に一度も声を掛けずにその街を離れたこと、少しだけ悔やもうと思ったけど、全く悔やめなかった。私はやっぱりお気楽者。
その年の春、あの頃の私が恋焦がれていたものを手に入れた。
沢山あるように思えたそれは、実はたった一つのそれに収束することを知った。
自由だ。
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