6月は君の匂い 〜第三章〜
あの時、アマクは無意識に私の名前を呼んでいた。
私はあの日、彼女を思い浮かべていた。
6月の雨に見蕩れ、空を見上げていた。
2人で出かけた場所も、景色も感情も、彼女の表情さえも、何もかも覚えている。
私はなぜ忘れてしまったんだろう。
彼女の名前は毎日、誰よりも呼んでいた。私の名前を誰よりも呼んでくれた。
振り向いてくれて一緒に笑って、一緒に話して、そんな記憶はしっかり鮮明に覚えているのに。
逃避行だってした。
悪いことだってした。
寄り道だって、夏祭りだって行った。
ゲームもお喋りも、旅も散歩も。
全て一緒で何もかもが楽しい時間だった。
彼女を忘れた私には今、何が残っているのだろうか?
全てが偽りという訳では無い。
ただ彼女といた時間を忘れたくないというのは本当だ。本心だ。
バカみたいにほっつき歩いて、笑いあった彼女は。
彼女は、彼女は──────。
「…シズク。」
零れ落ちた。涙と共に。
その言葉はなんだろう。
あぁ、思い出した。そうだ、そうだった。
シズクだ。思い出した。
なんで忘れていたんだろう。
彼女は、シズクだ。
「シズク、シズク…。」
何度も名前を呼んでしまう。
頬を涙が伝う。
隣の異世界人にはどう思われているのだろう。
今はずっと浸っていたい。彼女の名前はこんなにも私を変えてくれた。
あの日々がなければ私は何にもなれず、踏み出しもせず、一人の人生だったのだ。
きっと彼女は教えてくれたんだ。
私がどう生きるべきか、どうなるべきか。
あの旅も意味があったんだ。
そんな時、急にアマクは口を開いた。
「あぁ、ごめん。帰らなきゃ、いけない。」
私は咄嗟に振り向いた。
今、なんと言った?
帰らなきゃいけない?
口調も今までとは違う。言葉に重さがある。
本当なの?なんて聞かなくてもわかってしまった。
嘘だ、と呟いた。本当なんてこと知っていたけど。
そんなこと端から知ってるけど。
それでもそれ以外言えなかった。
「嘘じゃない。」
今にも階段を踏み外してしまいそうだった。足が震える。
その時、またアマクは口を開いた。
「なぜそんなことを言う?昨日会ったばかりで特もないだろ。こんなガキみたいなやついなくたって、君の人生を変わることはない。何故そんなにも、悲しそうな顔をする?」
確かにそうだ。コイツがいた所で何もない。逆に面倒が増えるだけ、気をつけなければいけないだけだ。
何故こだわる?何故嘘だなんて言った?
いなくたって変わらない。逆にいたって変わらない。
何が私を引き留める?その言葉の意は?何を考えていたんだ?
思い出なんて何も無いくせに、なんで今でも涙が流れているんだ。
有り得ないはずなんだ。この子に執着するなんて、あってはならない。この子のことなんて何も知らないし知ろうとも思わないし。
あぁ、一体何で……?
「・・・あ。」
私の上に立つこの子に、重なった。
苦笑していたその顔に。
あぁ、なんだ。そうなんだ。だからか。
「私のこと、覚えててくれたんだね。」
そうだよ。ずっと待ってた。
思えば似ていた。
笑った顔も怒った顔も、拗ねた顔も。
その、泣き顔も。
笑いながら涙が溢れているその顔は、今日夢で見たそのものだ。
夢なら黒く染まった。でもその涙はいつまでも綺麗で、私はそれを望んでいた。
悲しいとか苦しいとか、そんな感情だとしても透明で、光を反射する、そんな涙を。
今目の前にいる_______________
「私はシズクだよ。」
知っている。たった一日で帰るなんて言うのも、きっと本当は続いたりしないし、物語として美味しくはないんだろうけど。
これはなにかの物語なんだろうけど、どうせ何かのフィクションなんだろうけど。
そんな偽りだって信じたい。
だって今ここにいる彼女には触れられてる。
それだけでもう良かった。
「うん、うん……。」
「私ね、夢が叶ったの。」
「何?」
私の頬に触れて優しく言った。
「時雨とまた、逢えた。」
きっと、空の上で暮らすということも夢のひとつだったんでしょう?
「空で暮らせることよりも、今時雨と逢えたことの方が嬉しい。この身体はいいね。ケガもないし病気になってならない。健康な身体になれて嬉しい。けどさぁ、やっぱり時雨と逢えることの方が嬉しいよ。私に気づいてくれなくてもいいって思ってたけど、どうしても、踏みとどまれ無かった。」
「……。」
「名前を呼びたかった、あの日みたいに。」
ぐっと体を引き寄せて私を強く抱きしめる。
あの時のシズクはもっと弱かったその手は、今では欠片もない。
肌触りも多分違う。けどそれでもなにかを感じられた。
彼女が彼女であることは、紛れもない事実なのだ。
容姿がどう変わろうと、中身は変わらない。人の魂胆にあるものはそう簡単に変化したりしない。
あの時もきっとそうやって抱きしめたかった。私も貴方も。
もう変わってしまった私を、夢の中では許してくれなかった。
けど現実では許してくれる。
じゃあここが夢なんじゃないのかな。こんな幸せなことって夢なんじゃないのかな。
夢の方が不幸せって、変なの。
シズクは私の想像よりも優しかったんだね。
きっと私は覚えてなんて居ない。
覚えてたら、たぶん夢の中で許してくれるってことは知ってたはずだろう。
君のことをまだ知りきれてなかったから、夢と現実に違和感が生じたのだろう?
「ごめんね、私、まだシズクのこと知りきれてなかった。知らないことがあった。ごめんね。」
だから今、「いいよ」と許してくれることを想像した。
私は何も分かってない。
「イデッ!」
「バッカじゃないの!?知らないことがあって当然でしょ?何もかも知り合えるなんてこと、あるわけない。誰の間にだって知らないことや秘密があるんだよ。私だって、時雨に言ってないこと山ほどある!」
「そっか……。確かに私もある、かも。」
ひとつ知ることが出来た。
雫は、私が謝って欲しくない時に謝ると叱ってくれる。
そんな些細なことも、今日から知ろうなんて言えない。
だってもう帰らなくちゃいけないんでしょ?
本当はナスが食べられないこと、チョコが大好物でケーキは毎回チョコケーキのこと、小6まで100点のテストを取ったことがなかったこと。
そんなことて良かった。
知らないことの方が多かった。
何が知らなくてごめんなさい、だ。
知らなくて悪いことなんてなかった。
「そろそろ行こっか。」
「そうだね。」
傘を出して、昨日と同じ時刻を目標に家を出た。
パーカーを羽織って、ポケットに手を突っ込む。雨が刻む音は、別れの時までのその時間を刻むようだった。
たったの24時間。
その時間は、私が生きてきた中で一番長く楽しい時間だった。
きっとこれは偽りの物語。
それでも出会えたのだから、別にどうでもよかった。
また会えるって信じてるから。
逆にそれ以外願えない。
覚えてなくても、思い出したい。
それに必要なのは、この匂いだ。
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