帰納法
先日、半年以上ぶりに父方の祖父母の家に行った。
目的は2つ。
1つ目は孫として顔を見せること。
2つ目は、、、
【僕と父親は顔が似ているらしい】
これが数年前までの自分の印象だ。
「似ているわねぇ」祖父母や親戚からはよく言われていたが、それは所詮身内の意見だ。
そう幼い頃は思っていた。
しかし成長していくにつれ、その声は身内以外から聞こえて来るようになる。
小学生の頃、家族で平日の夕方に塾の前を通った。その際、塾の前で生徒を迎えていた算数の先生に会った。
「いつもお世話になっています。」
などの挨拶だけで、その場は終わった。
次の週、算数の授業で扱ったのは『合同と相似』
その先生は説明で、
「簡単に言うと、合同は全く同じこと。相似は形は同じだけど大きさが違うことだ。相似はなかじまとなかじまの父親みたいな関係だな。」と。
また年月が流れた。大学生になり、祖父母の家の前で網戸を洗っていると、隣の家に住んでいる人が
「〇〇ちゃん(父親の下の名前)かと思った。」と。
この辺りから、
【僕と父親は顔が似ているのかな?】となった。
そして、決定的なことが遂に起きた。
就職に伴って、地方から関東に戻り、5年ほどお世話になった車を手放すことになった。
手放す前日、家族LINEに1枚の写真が父親から投稿された。
写真の中では、自分と同じぐらいの年齢で自分と同じ顔をした男性が車に寄りかかっていた。
「同じぐらいの時の俺、車を手放す前に写真でも撮れば?」
【僕と父親は顔が似ている】
僕は次の日、その写真と同じ構図で写真を撮り、父親の写真と共にSNSに載せた。
後日、会う人会う人に
「似てますね」
「顔同じで笑っちゃいました」と声をかけられた。
会話の始まりは大体これだった。
ある後輩からは「あの写真って、なかじまさんが昔風に撮った写真じゃないんですか?」とまで言われた。
【僕と父親は顔が同じだ】
遺伝子の強さに感心すると同時に、ちょっとした絶望を感じた。
20歳になるまでは歳をとるのが嬉しかった。それは成長する喜びからくるものだ。
しかし、20歳を超えてから歳をとるのはそんなに嬉しくない。それは老いを感じるからだ。
そしていつからかはその老いを楽しめるようになるはずだ。
歳をとる喜びは上がって、下がって、上がる。
しかし、もう僕の[歳をとる喜び微分係数]は<0だ。20歳を超えた今、単調減少が確定している。
なぜなら、自分の将来が目の前にあるから。
25歳の時ほぼ同じ顔をしていた人が、目の前で56歳になっているから。
もう諦めよう。
将来ではなく、未来を見よう。
自分の子供はどうなるんだ。同じ顔になってしまうのか?
祖父は父親と同じ顔なんだろうか?
もし(祖父の顔)=(父親の顔)が証明されてしまった場合、数学的帰納法により
(なかじま家の父親の顔)=(なかじま家の息子の顔)・・・☆
が成立してしまう。
n=1の時、☆が成立するかを確かめるため。
これが祖父母の家に行く2つ目の理由だ。
そして夜、祖父の昔の写真を見せてもらった。
(1),(2)よりすべての自然数nにおいて☆が成り立つ。 (証明終)
すまない。未来は変えられない。
証明が済んだ後、アルバムのページを捲っていくと、
自分と同じぐらいの年齢で自分と同じ顔をした男性が車に寄りかかっている写真を見つけた。
なかじま家伝統の構図がそこにはあった。
将来、長男に言いたい。
「同じぐらいの時の俺、車を手放す前に写真でも撮れば?」
なかじま