今とジブンと、ワタシと未来。
ジブンの未来を描く人でありたい。
今回の記事はいつもの記事とは少し違います。まあ どちらかというと私はいつも主観的な記事を書くタイプではありますが、それでも読んでくれる人たちにとって何かすぐに生かせるものを届けようという思いで、できるだけ客観的に具体的にと いつもはnoteを書いています。
今回の記事は、どちらかというと「長〜い独り言」のようなものです。
今の自分がこんなことを考えてて、こんなものによって世の中に何か一石を投じようと考えているという、言わば「心の叫び」みたいなものです。
だから予め言っておきます。今回の記事は私的な思考による記事です。反対意見もあるかもしれない。そんなの無意味で無力だと思う人もいるかもしれないし、もしかしたら共感してくれる人もいるのかもしれない。
もし共感できる人が一人でもいたとするなら、この記事を書いた意味があります。
そう、この記事は「同志」を求める記事です。
私の書いた全記事の中で、この記事だけは 「読んでくれる人のこと」を先に考えずに、自分の心に忠実に書いていきます。皆さんがどう感じるかを考えていません。フラットな気持ちで書いています。
つまりそれは、
いつも私の記事を読んでくれている人が読んでくれなくてもいい記事。
それがこの記事です。もし読んでくれる人がいるならば、これは無力な私の心の叫びだと思って客観的に読んでくれると幸いです。
時代背景。
私は今54歳。もう少しで55歳になります。いい言い方をすれば経験豊富。嬉しくない言い方で言えば中高年のおっさんです。
私は今の世の中が閉塞感にあふれ、未来への希望が損なわれていることを悲しく思っています。いろんな新しいものが開発されて 「便利な世の中」になっているはずなのに、若者たちは希望ではなく危機感を感じている。
若者だけじゃない。子育て世代の人たちや私と同世代の中高年の人たちまでもが未来を不安視している。世帯年収は減っていき、消費も滞るばかりだ。
将来が不安で挑戦もできない。一部の成功者を除いてみんな今の生活の中で人生を消化していくことが精一杯だ。
こんな日本に誰がした!という話がしたいのではない。
こんな時代であっても「未来」は来る。未来とは希望でなければならない。未来に希望が見えなければ今をどう生きていこうか。なぜならば、未来は「今を懸命に生きる」ための光だからだ。
これから「未来ある世の中」になっていくかどうかは私にはわからない。
でも、ひとりひとりが「自分の未来」を豊かなものにしていくことはできると思っている。
そしてそれを実現するための仕組みは、インターネット時代の現代だからこそできるのではないかとも思っている。
そんな「自分の未来設計図」。
そんな私が考えていることを今日は書いていこうと思うのです。
昔の”未来”と、今の”未来”。
私がまだ10代の頃、日本は高度経済成長期だった。
今と比べても決して裕福ではなかったけど、それでも将来はどんな未来が待っているのか楽しみだった。
いや、正確に言うと「将来が楽しみ」と感じた記憶はなかったのかもしれない。ただ思い出すと「生きていく不安はまったく無かった」ということは覚えている。
そう、そのころの私たちは「未来を安心していた」。
このまま明るい未来がくることを疑わなかった。
ところが「今」はどうでしょう。明るい未来がどこにあるのか。
私が10代の頃は 社会に依存できた。未来を安心していた。
だけど 結局こんな未来になってしまった。
そう考えると「昔抱いていた未来」も幻想だったのだと思う。私たちは「近代的で豊かな未来」という幻想を抱いていたのだ。
「未来」とは何か。
私は長いことビジネスの第一線で仕事をしてきて、世の中には自分がコントロールできることとできないことがあることを知った。
「そんなことは当たり前だ」と今の私は思うけど、昔の自分にはそのことが理解できていなかった。時代の流れに沿って安全に生きていれば、ある程度「普通ランク」の「いい未来」が待っていると思っていた。
だから、物事や出来事をコントロールしようと思ったことなどない。自然の流れに任せるだけ。そこには何か特別なことを成し遂げようとする意識もないし、できないだろうと思うことに挑戦する気持ちもそれほど多くなかった。
「自分がコントロールできないこと」が山ほどあることだけは知っていた。
他人の気持ち。時間。時間割。受験科目。勉強しなくてはならないこと。その他にもいろいろあった。
「今勉強しておくとお前の未来のためになるんだぞ」。
先生によく言われた言葉だ。先生に私の「未来」が見えていたのだろうか。
それとも一般論としての「未来」を版を押すように要求していただけなのか。そもそも私の未来がどうあるべきかを共有していないのになぜ「勉強しろ」という具体的な行動だけを求めるのか。
そして先生の言う「未来」とは何なのか。その頃の私にはまったくわかっていなかったのだと思う。
間違いなくその頃の私にとって「未来」はコントロールできないこと。
時代の流れに沿って、世の中に依存して行けば辿り着く所。それが「未来」だと思っていたのだと思う。
やっぱり「過去はコントロールできない」。
学生の頃に先生に言われた「未来」。
学生の頃に自分が想像していた「未来の世の中」。
そしてその未来になった「今」。
どれも全部違う。どれも全部思っていたのと違う。
どれも「未来」という言葉を使っているけど、「未来」を定義づけるものではない。いったい「未来」ってなんなんだ? いったい「未来」って誰が決めるんだ?
そんな疑問の中でも私は「未来」という見えないものを考え続けました。
40歳を過ぎた頃、それまでにいろんなことを経験してきて、そして山ほどの失敗をしてきて思ったことがある。それは「過去には戻れない」ということだ。
経験したことを経験する前に戻ることもできないし、失敗したり人を傷つけてしまったことを無かったことにはできない。
人は歩んでいく過程で経験した成功や失敗を受け入れながら生きていかなければならない。
つまり、過去はコントロールできないということだ。そんなことは言葉の意味としてわかっていたけど、実体験として、人生として理解することで、少しだけ「未来」というものの姿が朧げに見えてきた気がした。
「未来」とはタイムラインであり、
「自分の未来」とは「主体的な想像」なんだ。
仮に人生を一本のタイムラインにすると「未来」が見えてきた。
「生まれた日」を左にして一本の線を引く。それを自分の人生のタイムラインとして過去の出来事を書いていくとする。
すると「今」から右側は空白だ。だってまだ来ていない「未来」だから。
その落書きを自分で書いてみて「ハッ」とした。
「未来」というのは人生のタイムラインの上にある。
そして過去も今も同じタイムラインの上にある。
これはつまり、「未来」とは主体的だということだ。
世の中の景気とかそういうものに依存して存在するものではなくて、
「自分の人生」というタイムラインの上にある。誰の未来でもない。
「未来」とは自分のもので、主体的なものであるということだ。
他人がどうとか、世間がどうとか、上役がどうとか、会社がどうとか、
そんな空気みたいに目に見えないものではなくて、確実に「自分の人生」というタイムラインの上にある。それが「未来」だ。
それに気付いた私は、まさに目に鱗だった。
子供の頃からずっと世の中に依存していたから。景気が悪くなったら自分もダメになると思っていたから。そして景気が良かったらその恩恵に預かっていい思いができるとも思っていたから。
世の中が良くなってさえくれれば自分の未来も明るくなる。その考えこそまさに「幻想」。昔抱いていた「未来」が幻想なのではなくて、「世の中に自分の未来を依存すること」こそが幻想なんだと気付いた。
だって「未来」は自分の人生というタイムライン上にあるわけだから。
”世の中の動き”によってその時々の対処や対応に影響はあるとは思うけど、自分自身の「未来そのもの」にどんな影響があるというのだ。
未来は間違いなく「自分の人生のタイムライン上」にある。そしてそのタイムラインの上にある未来というページは、白紙でまるで使っていないキャンバスのように真っ白で純白なのだ。
「自分で自分の未来を描く」。
それができない人が多い理由。
未来というのは主体的で自分だけのものだ。もっというと、人の数だけ未来はある。自分の未来は自分だけのもの。他の誰も、他の何も、他のどこも関係ない。それが「自分の未来」をイメージするということのベースになる考え方だ。
でも「自分の未来」に他人を巻き込むことはできる。
巻き込むという言い方はちょっと違うかもしれないが、それでも「自分の未来」のキャストとして他人を登場させることはできる。
主体的な自分だけの未来だけど、その未来が「どうあるべきか」を考えて、その「なりたい未来」に家族や愛する人を登場させることはできる。
あくまで未来は主体的で個人的だが、その個人的な未来に「いてほしい存在」はあっていいし、ある方が素敵だ。
望む未来はそれぞれ。大きければいいわけじゃない。
未来にどうなりたいか。どんな未来にしたいのか。
それは人それぞれだ。誰も人の「未来」を馬鹿にできないし、その未来に「大きい小さい」も「すごいもすごくない」もない。
自分が望む未来。それが正しい未来像だ。誰しもそれを否定することはできない。
なぜならば、未来は個人的だからだ。
その人個人の「望む」もの。それこそが「なりたい未来」だからだ。
「なりたい」という意味を考えてほしい。「なってほしい」ではないのだ。「なりたい」のだ。
「なりたい」という言葉の本質は「自己主張」。
自分事として「なりたい」と意思表示するものであり、自己主張を意思表示するからこそ「その未来を手にした時」の自分を想像することができるのだ。
一方、「なりたい」に近い言葉で「なれたらいいな」「できればなりたい」というのもある。言葉としては似ているけど「なりたい」と何が違うのか。
その違いは、それには「自己主張」が足りないということ。そしてそこには「決意」がない。
重苦しく言うつもりはないが、「できればなりたい」という未来は よほど運が良くなければ実際にはなれないことが多い。
その言葉の裏側には「頑張ってなれなくても仕方がない」という弱い意思が見え隠れするからだ。
しかし「できれば なりたい」という言葉を意図的に使う場合がある。
一生懸命にやっても「なれなかった」時に恥をかきたくないから。
もし運悪くどうしようもない要因で「なれなかった」時の言い訳を作らないと。と考えて、本当は自分の中で相当の決意でいても言葉としては「できるだけ」を付けてしまう。
実は私はその「できるだけ」を付けてしまうタイプだった。
でも今は違う。その「できるだけ」という5文字が未来に大きく影響を及ぼすことを知ったからだ。
ただの「言葉」として捉えてはいけない。ただの「付け足した言葉」として捉えてはいけない。
その5文字に潜むものは「妥協」と「諦め」という落とし穴だからだ。
楽な未来だっていいんだ。挑戦ばかりが未来じゃない。
「できるだけ」を付け足したくなる人の「なりたい未来」は大きいものの場合が多い。
例えば、プロ選手になるとか、大金持ちになるとか。
「今」の自分とのギャップが大きければ大きいほど「無理」が生じる。
そしてそうなると「難易度」も上がるから、「できるだけ」を付け足したくなる。
でも未来というものは「夢」とは少し違う。夢は掴むものだけど、未来は「来るもの」。夢は最後まで掴めない可能性があるけど、未来は生きていれば必ずやって来る。
だからもっと楽な未来だっていいはずだし、もっと普通のことでもいいはず。大きいだけが未来じゃない。平凡な未来だって肯定すべきだ。
最も大事なことは、
その「なりたい未来」を想像できるかということ。
その「なりたい未来」にワクワクするかということ。
その「なりたい未来」に幸せを感じるかということ。
趣味や特技やコレクションを大切にする人にとって、ただその趣味と過ごせるという未来だってある。今のままの未来を望む人もいるだろう。
それでも「未来」は描く必要がある。
それでも「未来」はイメージし、想像を膨らませる必要がある。
なぜならば、今と同じ未来は無いからだ。年月が経って時代が変わっても「今と同じ生活」が望む未来であるなら、その未来を描く必要がある。
「今のままの未来」は必然ではない。人は歳を食うし、世の中も変化する。
「今と同じ未来」を望むにしても、「今と同じ未来にしたい」という未来を描く必要があることを知ろう。
何もせずに自動的にやってくる未来は「自分の望む未来」とはかけ離れていることが世の常だからだ。
未来を描くこと。自分の未来を設計すること。
そしてそれを「今」はじめる。
「未来」というのは自分の人生のタイムラインの上にある。
そしてそれは何も書かれていない真っ白なキャンバス。
そこに自分の「なりたい未来」を描く。絵が得意な人は絵で。文字が得意な人は文字で。喋りが得意な人はボイスレコードでもいい。
「どんな未来を迎えたいのか」。
それを考える時間は必要でしょう。漠然と、感覚的に感じるのではなくて、具体的に誰がみても明確な「未来」を考えるべきです。
私は思うのです。それが例え「自分しか見ないもの」であっても、人に見られて恥ずかしいものにはしないようにと。
そしてできることなら「人に見てもらった方がいい」。無理にとは言わないが、人に見てもらうことで「伝わってほしい」という心理になる。
その「伝わってほしい」が「わかってほしい、肯定してほしい」という心理につながって、その人がそれを肯定してくれた時に「決意」につながる。
「なりたい未来」は、もちろん「描くこと」が目的ではない。
「そうなること」「それを実現できること」が目的です。
旅で例えると、「なりたい未来」は目的地。「未来を描くこと」が目的地までの地図を描くことということになります。
地図を書くなんて今の時代はしませんね。未来を描くことはスマホのナビをセットすることなのかもしれません。
それをプロジェクトとして考えてみる。
私は企画屋だから、その「未来を描く」という人の行動を いつの日からか「企画」として考えるようになった。
そしてその「企画」を練っていくうちに、プロジェクトとして立ち上げて「より多くの人の未来にフォーカスできる」という可能性に気付いた。
何度も言っているように「未来」は個人的です。個人的なんだから、ひとりひとりがその「未来」を考えて実現に向かえばいいのだと、今でも私は思っています。
でもひとつだけそれには問題点がある。それは「未来を描く方法論」つまり「未来の描き方」がわからないという問題。ただ書けばいいわけじゃない。ただ決めればいいわけじゃないのだから。
「自分の未来を描く」という作業は”自分で”やらなければならない。
自分の人生を自分で設計するからこそ、
自分の未来を自分で設計するからこそ、その未来にワクワクする。
人が決めたことではダメなんです。人から指示されることではダメなんです。どうしてもそこは「自分」という個人の意思決定が必要になる。
どこまで自分ひとりでできるというのか。
でもその「自分で描いた未来」がより近づけられるように。
その「自分で描いた未来」がより具体的で行動しやすいように。
その「自分の未来」をわかりやすく描けるように。
そして、その「未来への挑戦」をずっと継続できるように。
何に書けばいいのか。
何をどう書けばいいのか。
どこからどこまで書けばいいのか。
それをどうやって毎日に落とし込めばいいのか。
これで合ってるのか間違っているのか。
そこまでひとりで考えようとすると、普通やる気を失っていきます。
そこには「自分以外の人」の助けがあっていいと思うのです。
そこには「自分以外の人」のフォローがあってもいいと思うのです。
なぜならば、人は一人で考えることに限界がある。一人で描いて一人で進んでいく過程に「弱さ」が出やすいものです。
「これをやろう」と決めても、そのモチベーションは長期に継続されにくいもの。挫折、妥協、飽きという心理に打ち勝つことはそう簡単じゃない。
人は同じことをずっと継続できない生き物です。いや、できる人もいるでしょう。でも圧倒的に「できない人」の方が多いのです。
「継続力がない」。そう自己分析している人がほとんどです。あなただけじゃない。みんなちょっとでも躓くと挫折してしまうのです。
noteでもそうです。毎日投稿を決めてそれを現実として続けられる人は少ない。少ないから貴重だし、その人のことを「継続力がある人」と人は評価します。
「自分ひとりで決めたことをきちんと継続する」
そういう「継続力を教えること」も大事だけど、考えてみてください。
「ひとりで継続できる精神」が重要なのか、「継続したという事実」が重要なのか、ということを。
間違いなく「継続したという事実」の方が重要です。
「ひとりで挑戦して挫折した」としたらそれは「続けられなかった」という結果しか得られない。どんな理由があろうと、残るのは「続かなかった」という結果だけ。
だから「継続するために何が必要なのか」というところが重要なのです。
自分以外の人を巻き込む仕組み。
「寄ってたかって継続できたという事実をつくる」
それがプロジェクトの課題でありテーマでもあります。なぜならば、「人は続けられない生き物」だからです。「挫折、妥協、飽き」という心理は思っている以上に強く、そしてしぶとく伸し掛かるのです。
だから私はこのプロジェクトにはこんなものが必要だと考えています。あくまで直感的ですが、至って真剣に考えているのです。
[ 仮称:ジブンの未来設計図 システムplan ]
①誰でも無料で使える「ジブンの未来設計図」というワークシート
②それをTwitterやInstagramのようにユーザーネームで公開・共有できる
③メンター(助言者)とフォロワー(友達)と「自分の未来」を共有できる
④メンター・フォロワーとのコミットメント機能がある
⑤オンラインだけで完結できるシステム
⑥「未来設計」のハウツーは、無料・有料のオンラインコースで自主学習
⑦マンツーマン「未来設計」は有資格者のメンターと。
⑧Freeプラン(無料)・Proプラン(有料)・Specialプラン(有料)の3プラン構想。無料で十分使えるように。
⑨行動予定やスケジュールへの落とし込みができるものに。
※重たくならないように、ワクワクするツール型コミュニティであること。
※「個人」ではなく「未来」を中心にしたコミュニティであること。
「自分だけ」の中に閉じ込めていた「未来図」。
それを共有するから価値がある。
例えば「動画を編集する」という作業目的があれば Premiere proなどの動画編集アプリケーションを使うでしょう。
メモを取りたければ NotionやEvernoteなどのメモアプリを使うでしょう。
絵を描きたければ Padでスケッチブックのアプリを使ってもいいわけです。
だから「自分の未来設計」を自由に描けるツールが必要だと思ったのです。
そこには方眼用紙もあれば白紙のキャンバスも横箋ノートもあっていいし、ボイスだけでもいい。自由に書けない人はフレームワークもある。どれを使うかさえも自由である環境こそが重要。
だからツールのコンセプトは「どれを使っても自由」という部分です。
フレームワークだけではない自由さが大切だと私は思うのです。
そしてそれを「共有」できるという部分。それも大事なところ。
そもそも「自分の未来図」を人に見せることなんて無いのですよ。せいぜい家族か信頼できる仲間だけでしょう。
でも人がどんな「未来図」を描いているか、見たくないですか?
人がどんな未来を、どうやって、何を使って引き寄せようとしているか興味ないですか?
さすがに本名では少し抵抗があると思うから、そこはSNSに習ってユーザーネームで公開すればいいのです。公開することでひとつの「挑戦義務」が芽生えるし、何よりもそれをフィードバックしてもらったり、より良いアイデアを求めたり、協力してもらったりできるのです。
重要なのは「自分で描いた未来」に具体的に向かっていくこと。そしてその未来を実現すること。
それには継続力という大きな壁があります。
その壁をひとりで乗り越えるのではなく、いろんな人と共有しながら、その人の未来も見ていきながら、励ましながら支え合いながら向かっていく。
あ〜自分のつくりたい未来ってこういうことだなって思うのです。
そのツールやコミュニティはただの手段なのだなって。
私の目的は「そんな未来を自分でつくっていく人たち」をいっぱいにすることだなって。
一緒に「つくっていく」仲間が欲しい。
いろいろ考えたけど、これは社内の事業としてやってはいけないなって思うのです。つまり、上から下というトップダウンでやってはいけないこと。
同じ気持ちを持つ同志が結束して取り掛かるべきだって。
理屈ではなく直感的にそう思うのです。
「未来」というのは個人的。ひとりひとりの人生のタイムライン上にある。
その未来はほとんどの人が「真っ白なキャンバス」。未来は「来るもの」であり「つくるもの」ではないと思ってる人が多い。
今の世の中。
閉塞感で溢れている。この先どうなってしまうのだろうという不安がいっぱいの世の中だ。
だからこそ「未来」は自分で描かないといけない。描けないといけない。
社会に自分の未来を依存するのではなく、自分の未来を描いてそこに向かっている希望あふれる人たちが社会の空気を変えていくのです。
でも変えるのは社会の「空気」だけでいい。社会全体を変えることなんてできない。でも「空気」が変われば「希望」が増えていく。
「希望」が増えていけば「夢」も増えていく。
私は思うのです。未来には夢があって欲しいと。
小さくてもいいから夢があって欲しいと。
社会がどうとか、会社がどうとか、上司がどうとか、そんなの関係ない。
自分の未来を希望あるものにしている人が、まるで磁石のように引き寄せられてオンラインで集まって、ポジティブなコミュニティを実現できたなら、
社会は変わる。
子供たちの未来も、自分たちの人生も。
まだまだ企画段階で何も決まっていないけど、
時間がかかってでも成し遂げたい、これは私の社会への一石です。
未来を明るいものに。
そして、未来を自分で描く力を。
皆さんのお力をどうかお貸しください。
PS…
もし同じ気持ちを持つ方がいらっしゃいましたなら、
TwitterのDMでもwebsiteのコンタクトページからでも構いません。
ぜひお話しさせてください ^^
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