【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第12回)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。
【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもありますね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。
その上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と【考察】しますと、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと至ります。
ここで、“【説得力】の源”として機能する【存在】を、『最初から【存在】するもの』ではなく、『“【観客】からの【信頼】”によって生まれるもの』と捉えてみれば、“【説得力】としての【リアリティ】”に関しても見えてくるものがありますね。
【観客】を【人格】として捉え、それぞれ【個性】を持つ【観客】一人一人が抱く“【信頼】の【根拠】”というものを考えてみれば。つまりは『【個性】に基づき、“【信頼】の【根拠】”は【多様】に【存在】する』わけです。
となると“【信頼】の【根拠】”は【他人】の身で決め打ちできるものではない、ということになります。従って『“【信頼】の【根拠】”に符合し得る【情報量】』をいかに多く仕込むか、というところに“【説得力】を築く足場”が見えてくるものですね。
ここで【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”の在処にしても、また【情報量】を稼ぐ上で有利なのも、実は【体験】です。
ならば“【体験】という形式”こそが、【観客】に“【信頼】の【根拠】”を【提示】するのに極めて【有利】な【表現】――という【仮説】が成り立つわけです。
これを受けて、【体験】として“【現象】の【現場】”を作り込む、その際の【作者】の【姿勢】についてまとめを試みるならば。
自他の【人格】と【思考の自由】を【尊重】し、かつ【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”と【作品】内の【事実関係】を符合させ――と、これは一見して回りくどいやり方です。ですがこれに私がこだわる【背景】には、一つには“浅はかな【小悪党】”との間に明確な線引きを試みる【姿勢】があるわけです。
実はこの【姿勢】、私が【攻略法】とされるものに対して懐疑的である【理由】とも重なります。
“【信頼】としての【説得力】”を【獲得】したいなら。さらには“より豊かな【観察眼】および【審美眼】を持つ【観客】”から、より大きな【信頼】を【獲得】したいなら。
“浅はかな【小悪党】”の手口に重なって映りかねないやり方には、もはや【危険】しかないわけです。
その点、“【攻略法】とされる【言葉】”を使うということは、『手っ取り早く“【説得力】の源”である【信頼】を【獲得】しようとする【姿勢】の現れ』、言い換えれば『“浅はかな【小悪党】”の手口』という【判断】と【警戒】を招きやすいものです。
そう考えてみると、今度は【作品】から【作者】の器、その大きさまでもが覗いてくることにもなりそうです。
【他人】の立場から【信頼】というものを見ようとするなら、その手がかりは【当人】の【言動】に求めるしかありません。いずれの側も【心理】を読み取ることも、ましてや『思い通りに操ること』もできないわけですから。
そう考えるとき、【作者】の【言動】が“浅はかな【小悪党】”と重なって映ってしまうとしたら。
これは【作風】や、【作品】にまつわる【言動】も含めてのことになりますが、そこに【観客】が浅はかさを、悪くすれば【悪意】を読み取ったとしても、責めるべき【理由】は【存在】しません。
しかもこの【傾向】は、【観客】が【観察眼】を充実させているほど強まります。【観賞経験】に比例して“不愉快な【経験】”を得た【可能性】は大ですし、そこから学んだ【可能性】も同様ですから。
前回はこの点をもう少し掘り下げて、“【攻略法】を【アピール】する【姿勢】”と“【作品】の【作り込み】”との【関係性】について、【考察】を巡らせてみました。
私の【認識】するところ、『俗に言われる【攻略法】なるものは、“【過去】の【環境】における【成功例】から【抽出】した【ヒント集】”であって、それ以上でも以下でもない』ということです。
従って『【攻略法】を【忠実】に【実行】している』という【アピール】は『【環境】の【変化】に眼を向けず、よって【現状】を捉える【努力】も【工夫】もしない』という【手抜き宣言】にも等しいわけです。
これを【観客】が見抜いたら、さてどうでしょう。特に【場数】を踏んで“浅はかな【小悪党】”も見てきた“【観察眼】のある【観客】”なら、その【可能性】は極めて大でありましょうが、『【信頼】に値しない【作品】および【作者】の【特徴】』という【判断】を下すわけです。【作者】ごと【ブラック・リスト】に入れられたとして、私は不思議に思いません。
ではこの逆、“【信頼】としての【説得力】”に繋がるであろう【作り込み】は――ということについて、今回はお話ししてみましょう。
◇
ここで【作り込み】へ、話を移します。
要は、『【攻略法】が着眼していない範囲は広大』というわけです。ただし、『【攻略法】とされるものが全くの【無駄】』というわけでもありません。
【攻略法】のみに限らず、この【現実】に【存在】する【事実】や【法則】は、『そこから何を学び、どう【応用】するか』で大いに役立つはずなのです。
例えば【フィクション】。
【現実】とは何らかの形でかけ離れているのに、なぜ【観客】が【没入】できるのでしょうか。【出来】が良いことは【大前提】としても、ではその【出来】は何と何で決まるのか――そこを【研究】してみる【価値】はあるはずです。
考えてみるに、【フィクション】の【物語世界】は“【設定】という【大嘘】”を抱えています。つまり【ポイント】はともかく、【現実】からはかけ離れているわけです。
“【出来】の良い【フィクション】”は、“【設定】という【大嘘】”がいかに突拍子もなかろうとも、【相性】のいい【観客】に【没入】を促します。これは先述した【リアリティ・ライン】に対する【考察】でも触れたところです。
ここで、【攻略法】とされているものの一つに眼を向けてみましょう。『【額面通り】ではないにせよ、【全くの嘘】というわけでもない』でしょうから。
『【フィクション】で“大きな【嘘】”は、一つあってもいい。”小さな【嘘】”は、あってはならない』。
ここで言う“大きな【嘘】”は、“【設定】という【大嘘】”に相当するもの、と見当がつきます。
では、“小さな【嘘】”とは何を指すのか――という点に、【興味】が及びます。
ここで【考察】を巡らせてみましょう。
先述の通り、【フィクション】の【物語世界】は“【設定】という【大嘘】”を抱えています。この“【設定】という【大嘘】”の【影響】で、『【物語世界】は【現実】から“歪んだ”形になっている』はずですね。
ただしこの“歪み方”は、“【設定】という【大嘘】”に【由来】するものです。
つまり“歪み方”は【設定】に応じて【Case by Case】。言い方を変えれば、『【物語世界】ごとに、つまりは【作品】ごとに“歪み方”は異なる』ということになります。要は『“歪み方”の【作り込み】を、“【攻略法】として【公約数】的に括ること”は【不可能】』ということです。
その一方で。
大多数の【物語】では、『【物語世界】は【現実】から完全にかけ離れている』というわけでもありません。『【観客】と【思考】をある程度【共有】する【意図】』もあり、『“【設定】という【大嘘】”から遠く離れた部分では、“【現実】と地続きのところ”もある』はずです。例えば【倫理観】の一部であるとか、【物理法則】の一部であるとか。
ここで、“【設定】という【大嘘】”と“【現実】と地続きのところ”、両者のギャップに【着眼】してみます。
“【設定】という【大嘘】”一つを【現実】の中に放り込んだら、それだけで“【出来】のいい【物語世界】”が【完成】するものでしょうか。
【我流】の回答は『否』です。【現実】の真っ只中に“【設定】という【大嘘】”があったら、【巨大な矛盾】が【発生】するはずだからです。
例えば“【設定】という【大嘘】”として、“【世界征服】を企む【組織】”を、“【現実】と完全に地続きの【物語世界】”に放り込んだとします。ただし、これ以上の【工夫】も【考察】も、この時点では全く行わないこととします。
実はこの時点で、【巨大な矛盾】が【発生】します。『“【世界征服】を企む【組織】”がいかに【活動】しようとも、“【現実】と地続きのところ”へ【干渉】する余地、これが全く【存在】しないから』です。
なぜかと申せば。
この【状態】では、『“【現実】と地続きのところ”は、“【設定】という【大嘘】”の【影響】を受けた瞬間から、本来なら“【現実】から歪んで”しまうから』です。“【現実】から歪んだところ”は、もはや“【現実】と地続きのところ”ではないのです。
ゆえに、言えることは。
“【設定】という【大嘘】”を設けたら、その【影響】を受けて“【現実】と地続きのところ”との間に“歪み”が生まれるわけです。
なので【フィクション】では、この“歪み”を【考察】し、さらに“【設定】と【現実】の【中間部分】”を【シミュレート】し、これを【再現】して『【設定】と【現実】を“滑らかに【接合】する【作業】”』が【必要】になる――ということです。
じゃあ“小さな【嘘】”とは何か――ということを【我流】で申し上げますと。
『【中間部分】として【シミュレート】が甘く、従って“【設定】という【大嘘】”と“【現実】と地続きのところ”の間の“滑らかな【接合】”を損ねるもの』こそが、【我流】で【認識】する“小さな【嘘】”です。言うなれば“【物語世界】としての【不整合】”ですね。
ここに【経験則】を加えるなら、特に“【作者】の【ご都合】による【不整合】”というものは、極めて【強烈】に【没入】を【阻害】するものです。ここでいう【ご都合】には、“【作者】の【手抜き】”も含まれます。
ここで【注意】すべきは、『“【設定】という【大嘘】”は【物語世界】の数だけ【存在】する』ということです。
これが【意味】することは、『【設定】と【現実】を“滑らかに【接合】する【作業】”』は【Case by Case】だということ。これ自体は言及しましたが、ここで取り上げたいことはつまり、『ここに“【攻略法】頼みの【姿勢】”で臨んだなら、大変な【高確率】で【不整合】、つまり“小さな【嘘】”が大量発生する』ということです。“【攻略法】は【スカスカ】”ですから。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
“【現実】と地続きのところ”へ“【設定】という【大嘘】”を馴染ませる【作り込み】は、もちろん【設定】ごとに【必要】になります。【設定】ごと、ということはつまり【作品】ごと、つまりは【Case by Case】というわけで、ここに【共通】するものはただ【姿勢】しかありません。要はこの部分、【攻略法】として括りようがないわけです。
すると“【攻略法】頼みの【姿勢】”というものは、『【作者】が【信頼】に値するか』を観る上で【重要】な【意味】を帯びてきやすいことになります。これは“【信頼】としての【説得力】”を観る上で、軽くない【判断基準】にもなりそうです。
次回はこの辺りを含めて、まとめとして参りましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。
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