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【言葉】の【意味】、【体験】の【重み】(第11回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、このところ【説教】つまり【言葉】(【直言】)と【上質な物語】、その違いの間に【存在】するはずの【説得力】というものについて【考察】を巡らせております。

 【言葉】は“極限まで【簡略化】されている【媒体】”で、その【背景】があって【手軽】に扱えるものです。が、ゆえにこそ逆に損なわれるものもありますね。その【言葉】そのものを“【事実】と【認識】する【根拠】”は、その一つというわけです。

 その上で、【説得力】つまりは“【事実】と【認識】する【根拠】”の在処は――と【考察】しますと、『【説得力】の宿る【主体】は【体験】』というところへと至ります。

 ここで、“【説得力】の源”として機能する【存在】を、『最初から【存在】するもの』ではなく、『“【観客】からの【信頼】”によって生まれるもの』と捉えてみれば、“【説得力】としての【リアリティ】”に関しても見えてくるものがありますね。

 【観客】を【人格】として捉え、それぞれ【個性】を持つ【観客】一人一人が抱く“【信頼】の【根拠】”というものを考えてみれば。つまりは『【個性】に基づき、“【信頼】の【根拠】”は【多様】に【存在】する』わけです。
 となると“【信頼】の【根拠】”は【他人】の身で決め打ちできるものではない、ということになります。従って『“【信頼】の【根拠】”に符合し得る【情報量】』をいかに多く仕込むか、というところに“【説得力】を築く足場”が見えてくるものですね。

 ここで【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”の在処にしても、また【情報量】を稼ぐ上で有利なのも、実は【体験】です。

 ならば“【体験】という形式”こそが、【観客】に“【信頼】の【根拠】”を【提示】するのに極めて【有利】な【表現】――という【仮説】が成り立つわけです。

 これを受けて、【体験】として“【現象】の【現場】”を作り込む、その際の【作者】の【姿勢】についてまとめを試みるならば。

 自他の【人格】と【思考の自由】を【尊重】し、かつ【観客】が持つ“【信頼】の【根拠】”と【作品】内の【事実関係】を符合させ――と、これは一見して回りくどいやり方です。ですがこれに私がこだわる【背景】には、一つには“浅はかな【小悪党】”との間に明確な線引きを試みる【姿勢】があるわけです。

 実はこの【姿勢】、私が【攻略法】とされるものに対して懐疑的である【理由】とも重なります。

 “【信頼】としての【説得力】”を【獲得】したいなら。さらには“より豊かな【観察眼】および【審美眼】を持つ【観客】”から、より大きな【信頼】を【獲得】したいなら。
 “浅はかな【小悪党】”の手口に重なって映りかねないやり方には、もはや【危険】しかないわけです。

 その点、“【攻略法】とされる【言葉】”を使うということは、『手っ取り早く“【説得力】の源”である【信頼】を【獲得】しようとする【姿勢】の現れ』、言い換えれば『“浅はかな【小悪党】”の手口』という【判断】と【警戒】を招きやすいものです。

 そう考えてみると、今度は【作品】から【作者】の器、その大きさまでもが覗いてくることにもなりそうです。

 前回は、この点について【考察】を巡らせてみました。

 【他人】の立場から【信頼】というものを見ようとするなら、その手がかりは【当人】の【言動】に求めるしかありません。いずれの側も【心理】を読み取ることも、ましてや『思い通りに操ること』もできないわけですから。

 そう考えるとき、【作者】の【言動】が“浅はかな【小悪党】”と重なって映ってしまうとしたら。

 これは【作風】や、【作品】にまつわる【言動】も含めてのことになりますが、そこに【観客】が浅はかさを、悪くすれば【悪意】を読み取ったとしても、責めるべき【理由】は【存在】しません。
 しかもこの【傾向】は、【観客】が【観察眼】を充実させているほど強まります。【観賞経験】に比例して“不愉快な【経験】”を得た【可能性】は大ですし、そこから学んだ【可能性】も同様ですから。

 今回はこの点をもう少し掘り下げて、“【攻略法】を【アピール】する【姿勢】”と“【作品】の【作り込み】”との【関係性】について、【考察】を巡らせてみましょう。

 ◇

 実は、『“【攻略法】頼みを【アピール】する【姿勢】”が帯びる【弊害】』は、これだけに留まりません。

 ここで持ち出した“【攻略法】頼みの【姿勢】”、次に触れる【作り込み】についても【悪影響】を及ぼします。つまり【作品】の【完成度】に関わることですね。これを【観客】が【過去】の【経験】から『【悪意】の【可能性】が相応にあり、また【完成度】も低い【可能性】が高い』と【判断】したなら、【場合】によっては【即離脱】、そも【作品】を表立って【評価】されるにさえ至らない、という【可能性】まで出てくるわけです。

 【不言実行】とは古くから伝わるだけに、通用する範囲も幅広いようです。

 さて、“【攻略法】頼みを【アピール】する【姿勢】”と【作品】の【作り込み】との関係性について。

 実際のところ、【攻略法】と呼ばれるものは『複数の【事例】を元に、“【成功】しやすい【やり方】の【共通項目】”を【抽出】したもの』です。

 「【成功例】から抜き出したんだから、それでいいじゃないか!」と【短絡】する【意見】も私は【予想】しますが。
 その【見方】は往々にして『“【成功】の【背景】”に眼を向けない【姿勢】の現れ』であったりもするものです。

 そもそも『あらゆる【条件】の下で【成功】することを【証明】された【方法】』などというものは、【現実】には【存在】しません。加えて“【攻略法】の元となった【事例】”にしてからが、『“【過去】の【環境】”で起こった出来事』に過ぎないのです。
 【前提条件】からして異なるのに、同じ【法則】が当てはまると【主張】するなら、その【見方】は【甘すぎる】――と【判断】するしかありません。

 それでなくとも。
 【攻略法】とは、『(【過去】の【条件】において)“【成功】しやすい【やり方】の【共通項目】”を【抽出】したもの』です。つまり【抽出】した時点で“【公約数】的で【不足】を抱える【存在】”であり、言い方を変えれば『単独では【成功】を【実現】することが決してできない、【成功要件】としては【スカスカ】の【内容】』でしかないのです。

 【要約】を試みるなら、『【攻略法】なるものは、【不足】を内包している』ということになりますね。
 ただでさえ『“【現在】の【環境】”を【前提】としていない時点で、“【現実】との【不整合】”を内包している』ところ、さらに加えて『“実際に【実行】すべき【項目】”としては、【不足】を内包している』ことにもなるわけです。

 よって【攻略法】とは、本来なら『その【成立背景】を【検証】』し、『“【現在】の【環境】”に合わせて【補正】』し、なおかつ『【目的】と【攻略法】との間にある【齟齬】や【空白】に相当する部分の【内容】を【作り込み】』までして、それで初めて【成功率】の【向上】を【期待】できる性質のものです。もちろん全知全能などではありませんから、【確実】などということはあり得ません。
 “【攻略法】を【盲信】するばかりで【検証】も【工夫】もしない【姿勢】”、つまりは“【攻略法】頼みの【姿勢】”というのは、言ってしまえば“浅はか”でしかありません。

 “【攻略法】頼みの【姿勢】”で【大成功】を夢見るのであれば、『単なる【妄想】のまま【破綻】を迎えて終わる【可能性】』というものは、極めて大でありましょうね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 私の【認識】するところ、『俗に言われる【攻略法】なるものは、“【過去】の【環境】における【成功例】から【抽出】した【ヒント集】”であって、それ以上でも以下でもない』ということです。
 従って『【攻略法】を【忠実】に【実行】している』という【アピール】は『【環境】の【変化】に眼を向けず、よって【現状】を捉える【努力】も【工夫】もしない』という【手抜き宣言】にも等しいわけです。

 これを【観客】が見抜いたら、さてどうでしょう。特に【場数】を踏んで“浅はかな【小悪党】”も見てきた“【観察眼】のある【観客】”なら、その【可能性】は極めて大でありましょうが、『【信頼】に値しない【作品】および【作者】の【特徴】』という【判断】を下すわけです。【作者】ごと【ブラック・リスト】に入れられたとして、私は不思議に思いません。

 ではこの逆、“【信頼】としての【説得力】”に繋がるであろう【作り込み】は――ということについては、次回お話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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