困難な体験は大きな価値があるように感じてしまう
何かを得る時に困難がある方がより価値が増します。
苦労して手に入れたモノの方がより価値があると思い込むのが人間なんですよね。これの良い面は些細な価値しか無いモノでも、苦労を経験することで満足度が高まるという部分です。
困難な体験が大きな価値にする
例えばカップ麺でも高価なモノだと感じることがあります。
いつでも食べられるようなカップ麺でもしばらくご飯を食べていなければ、最高の晩餐になるし戦時中の人からみれば、カロリーの高い食べ物を口に出来るなんて至福の瞬間だと言えるわけです。
このように困難があれば些細なモノでも大きな価値が生まれます。
必死で頑張って受験に合格したら人生の勝ち組のような気分になるのと同じですね。手に入れたものが社会的には誰でも手に入れているものでも、自分の過酷な経験から考えてより価値を感じるようになるんです。
なのでより幸福感を味わいたいなら不幸も必要かなと。
不幸は幸福を堪能するためのスパイスですから。
だから困難な体験や不幸を経験することも決して悪いことでは無いんですよ。ずっと幸せな状態だとその幸せが当たり前になるので、幸せであることの価値が下がってしまいます。
現に最も幸福度が高いのは不幸から幸福になった人だとか。
ずっと幸福な人よりも不幸な状況から成り上がった人の方が、実は幸せだと言えるんですよね。
だからこそ困難な体験も悪いモノではないんです。
体罰や虐待が無くならない理由
ただデメリットもあるんですよ。
それは「困難な体験がある方が幸せになれるから、困難な体験を他人に与えても良い」という勘違いも引き起こしてしまうんですよね。これは大きな問題だと言えます。
部活の後輩に過酷な練習をさせたりとか、部下に必要以上に厳しく接して無意味な仕事をさせたり、子供があえて嫌がるようなことをしたりする人がいるんですよ。
「こういうのも必要な体験だから」
という理由があるのでそれが悪いことだ思っていないんですよね。
実際にそういう嫌な体験を受けてきた人ほどそれをします。
なぜなら「自分は困難な体験をしたから幸せになれた」という思いがあるので、後輩たちにもそういう体験をさせたほうが良いと思ってしまうんですよ。
だから体罰や虐待は無くならないんです。
それを必要としている人がいるから。
困難な体験を強要する人はそれが必要だと思ってしまっているんですよ。しかし他人からすればそれは無意味な体験で悪影響しかないんですよね。確かに困難な体験は人を強くしてより幸せにすることがあります。
しかしそれを意図的に与えるのはどうかと。
無いなら無い方が良いんじゃないかと思うんですよ。
もっと具体的に言えば主体的に困難な体験を乗り超えようとする人にとっては、困難な体験は良いモノになりますが受動的に困難な体験をする人たちにとってはそれは最悪な体験になってしまうんですよね。ただ無力感を感じる苦痛な時間を過ごすだけですから。
無意味なことに必要性を感じない
実際に虐待や体罰の悪影響は恐ろしいほどあります。
しかも困難な体験を経て良い状況になればより幸せになれますが、それが原因でずっと不幸だと最も不幸な人になってしまいます。
なので困難な体験と言うのは避けることが出来ずに向き合うしかない時にだけ、その体験をポジティブにとらえていくことが大事だと思うんですよ。
意図的に誰かに与えるモノじゃないわけです。
ただ実際に退屈な作業をさせられて報酬が無い人ほど、実は満足度が高まったりするという話があるくらいなので、なかなかこういう心理から離れらないわけです。「あの作業に意味があった」と思わないとやってられないので、自分の行動を正当化してしまうんですよね。
だから人は困難な体験に必要性を感じるんです。
なので合理的に考えて「無意味な苦労や努力に必要性を感じない」と、思うのも大事なことなんですよ。
過酷な儀式をする部族ほど結束力が高い傾向があると言います。
仲間内で過酷な現場を乗り超えると確かに結束力が高まるのでその過酷な体験に必要性を感じてしまうのでしょう。しかし多くの人がそう思うことで集団的ないじめに近い状況を生んでしまうのも事実です。
だからこそ困難な体験には適切な考えが必要です。
避けられない時にだけポジティブに考えるようにすること。
そして他人に困難な体験を強要しないことが重要だと思います。
何者でもない僕をサポートしてくれるならあなたの気持ちに答えれるように、これからもコツコツ頑張っていきます。