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村弘氏穂の日経下段 #32(2017.11.4)

呼ばれても振り返れないイチョウには銀と杏と想い出の人
(東京 瀬戸えみり)

 秋冬の銀杏並木をゆくひとは振り返らずに春へ駆け出す。なぜ振り返ることが出来ないのだろう。なぜ銀杏を銀と杏に分けたのだろう。その心情は全てこのトリックアートのように巧みなレトリックを用いた作品の中にある。しかしよくこれだけの切ない詩情と恋物語を定型に収めたものだ。ぎんなんはおそらく追憶における苦味を含有する種子であろう。それを煌く銀と甘酸っぱい杏に分解してしまう発想がまず独特で面白い。イチョウは中国名では「鴨脚」と呼ばれるように、その落ち葉は大人へと歩んできた足跡のようでもある。その『イチョウ』をはじめとして、下の句に軽やかに置いた三つの暗喩を読み解けば四季をイメージできる構成だ。色めいた『銀杏』はもちろん秋の季語、つづいて『銀』からは冬の銀世界、『杏』は春の季語、そして夏の『想い出の人』。『呼ばれても振り返れない』と詠いながらも銀杏並木で作者は、過ぎ去った四つの季節を順に思い返しているのだ。セピア色の回想の先にある未来の舗道はいま黄金色に輝いている。

ミサイルがミサイルを抱く瞬間をぼくらは空に見るのだろうか
(古賀 砂山ふらり)

 新聞上の報道はともかくとして歌壇においては飽和状態であるモチーフ。そんな『ミサイル』を二つも詠み込む暴挙にもはや読者は胸を撃たれたりはしない。この作品の魅力は結句の疑問形にある。もしかしたら未来において、ミサイルがミサイルを抱くその瞬間までに、暴虐な仔羊とも言えるこの作者が抱いているのは、危機感であり不安感なのだ。それらの感情が大きな疑問となって結句に集約されているようだ。この作品のもうひとつの魅力である軽快な韻律を奏でているフレーズのひとつひとつはきっと、暴虐な君主が発射したミサイルに対する我が国の迎撃システムの実現性に疑問を抱きながらひつじ雲のように浮かんだのだろう。爽やかな秋晴れの午後に廃校の屋上で甲本ヒロトに歌ってもらいたい一首だ。

ばあちゃんの葬儀をやった葬儀場からばあちゃん宛に来てるお便り
(名古屋 小坂井大輔)

 ばあちゃんが孫を詠んでも大概は面白くないのだが、孫がばあちゃんを詠むと面白い。だからといってそんな『ばあちゃん』を二つも詠み込む暴挙にそうそう胸を打たれたりはしない。しかしながら、上下の句跨りとして下の句の字余りで読むべきか、はたまた上の句の字余りで読むべきか。そんな鑑賞を何度もしているうちに魅力的な『ばあちゃん』は十回以上も降臨してしまう。通常なら喪主に宛てて来るはずの便りなのだが、もうこの世には存在しない人宛てに来たという。そこで、自らの葬儀の準備で自ら葬儀社の資料を取り寄せた『ばあちゃん』の女丈夫ぶりが凛と際立つ。なんと気丈な家族への配慮だろう。孫への深い愛情が時空を超越して、タイガーバームの香りとともに紙面に降りてきたようだ。作者のみならず、見ず知らずの読者の心に今朝『ばあちゃん』は凛々と甦ったのだ。

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