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村弘氏穂の日経下段 #33(2017.11.11)

水に水かさねるように抱き合うふたりのことを月はみている
(釧路 北山文子)
 

 見ずに見ず薄暗闇で抱き合う二人をそっと見てる眉月。「水」の解釈に多様性があって美しくも愉悦を覚える一首だ。「水」は若さの象徴でもある。人間の体の水分は若ければ若いほど多いのだから。そして人間は水中で誕生した生命体を祖先にもつ生物でもある。しかしそのように若くて麗しい「人と人」であっても「水と水」に成り得るのは相思相愛のケースに限られる。こんなにも愛し合っている現実を淡白な水で読者に知らしめてしまう技巧は見事だ。作品の大半を構成する平仮名が、宿命のように一体化する軟水を現しているようだ。初句の水と結句の月の対比が互いを照らし合って神秘的な輝きを放っている。



打つ雨の正確じゃない雨音はきっと指揮者を失ったから
(東京 野原 豆)

 この作品は印象派の詩だ。正確な雨音とは作者が求めている旋律のことだろう。ブラームスの「雨の歌」、ドビュッシーの「雨の庭」、ショパンの「雨だれ」、メラルティンの「雨」など雨を奏でる名曲は多い。長雨の鬱陶しさを晴らすために、演奏者である雨粒たちにはそんなメロディアスな間隔で鍵盤を叩いて、心に響かせてほしいのだろう。それらの楽曲の寸分違わない正確な演奏には、ワルシャワの音楽院を出たポーランド人の指揮者が必要だ。しかしそんな者は秋雨の東京に長くは滞在していない。そもそも最初からいないのだ。実は指揮者とは作者自身の心に宿った、経験と記憶をもとに聴いた音を華麗に変換するマエストロなのだ。指揮者を失ったということはつまり、この日はたまたま自身をコントロールできなかっただけだろう。上の句の「雨」のリフレインは途切れなく降り続く旋律を想起させ、下の句にスタッカートのように置かれた二つの促音は、不規則な雨音を巧みに表現している。音楽的にも優れた変イ長調の作品だ。



パンを触る前に石鹸で手を洗うそれだけの人生君と生きたい
(東京 上坂あゆ美)

 手を洗うのがハンドソープではなくて「石鹸」と詠われてしまったせいで、聖書の言葉を思い浮かべてしまった。パン、石、人生の三点セットだから無理もない。紀元二十六年のイスラエルの話だ。四十日四十夜断食して空腹を覚えられたイエスに「あなたが神の子ならこの石がパンになるように命じなさい」とサタンが云ったシーンだ。おそらくこの作者にとっては「パン」も「君」も愛しさの極みであり神聖な存在なのだろう。パンを触る前も君に触れる前も同様に身を清める様子が窺える。つまり『作者はパンだけで生きるのではなく、君の口から出る一つ一つの言葉による』人生を送る覚悟なのだろう。作者が詠うところのそれだけの人生は、それだけで素晴らしい人生だ。

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