村弘氏穂の日経下段 #49(2018.3.17)
世界すべてが凍つた朝にきみの手がバケツのなかからすくふ満月
(見附 有村桔梗)
20xx年、スノーボールアース現象に見舞われた地上で凍結を免れた個体が二つだけある。それが『きみ』と、それを見つめている作者だ。まるでサイエンス・フィクションの映画の感動的なラストシーンのようだ。バケツの中の液体ヘリウムに映る満月は、望月だから希望のメタファーだろうか。『きみ』がそれを掬い出すことは世界を救うことに繋がるのだ。冷気が漂う中で震えたつ『きみ』の両手は果たして無事に未来を掴みとることができたのか。この一編の詩のセンセーショナルな異界感の中には絶望的な状況からの脱出の臨場感や切迫感、そして高揚感も含まれていて、読む者を一瞬で凍らせてしまうようだ。もちろんリアリティよりもファンタジックな魅力が主のフィクションではあるが、科学的な空想にもとづいたフィクションだから地球の凍結自体は有り得ないことではない。春眠で寝過ごしているあなたへの警鐘でもあるのだ。実際のところは、ここで作者が詠う『世界』とは元から二人だけの世界なのかもしれない。世界すべてが凍るといってもその世界は二人がすべてなのだ。燃え上がる関係の時期もあれば、凍てついた関係の時期もある。しかし『きみ』の手はどんな氷河期をもとかしてしまうほどの温もりを持っているのだろう。冒頭でSF映画のラストシーンのようだと述べたが、これは続編のオープニングのシーンでもある。同じ作者が制作したスノーボールアースⅡが読みたくなるような作品だ。
理想郷がエルドラドなら僕たちの生きる世界はドラドルエなり
(登別 松木秀)
一見すると非現実世界と現実世界とのギャップを厭世的に詠んだかのようにも捉えることができる作品だが、『ドラドルエ』が明確化されていないのでそうとも限らない。『ドラドルエ』はある意味エルドラドと同じ想像上の産物なのだから。もしかしたらフィクションとノンフィクションの対立や、二重世界の対比以前に『世界』とは一体何であるのかを問いかけている詩なのだろうか。そう考えるとやはり『ドラドルエ』は文字こそ逆配列だが、『エルドラド』の反義語とは限らないのだ。『ドラドルエ』がディストピアである可能性ももちろんあるが、実はエルドラドと同じ黄金郷の可能性だってある。理想が空想の上にあるように実は現実も空想の上にあって、我々はその世界をリアルだと誤解しながら生きているのかもしれない。現実を現実だと自身が証明するなんて現実的に危ういのだから。エルドラドを舞台にした『カンディード、あるいは楽天主義説』というピカレスク小説を発表したフランスの啓蒙思想家ヴォルテールの言葉に「私がいるところ、それが地上の楽園だ」という名言があるが、この作品も言外に、それぞれの読者が理想的な世界に生きているかを問うているのではなかろうか。作者が『ドラドルエ』の解釈を読者に委ねた意図がそこにあるような気がする。仮に『ドラドルエ』を生きているのが『僕』だけならばペシミズムが際立つのだが、『僕』ではなくて『僕たち』としているから尚のことそう感じるのだ。前述したヴォルテールの名言にこんなものもある。「あらゆる人は同等である。それを異なるものにするのは生まれではなくて、徳にある」という一節だ。いま皆さんが暮らしている『ドラドルエ』は果たしてどんな世界なのだろう。