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村弘氏穂の日経下段 #11(2017.6.10)

どちらからともなく繋ぐ手どちらからともなくほどける夜のどこかで

(横浜 櫻井鞠子)

 結句の「どこか」は空間ではなくて、時間的な概念でのポジション。繋がっていたのにいつの間にか、それぞれの肉体へと帰る手は、それぞれの空間、それぞれの時間へと帰ってしまうことの白い布石だ。上の句の手は「繋ぐ」で意思があるんだけど、下の句の手は「ほどける」だから意思が希薄。きっと時間の仕業なのだろう。序章の恋の臨場感が置き去りにされた反面、終章で愛を経由した世界との繋がりを求める孤独感が、儚くも鮮やかな詩となって浮上した。


さっきホームラン打ってたウィーラーが駅東口のサンクスにいた

(山形 うにがわえりも)

 日常に潜んでいる仰天に直面した刹那をヒトコマ漫画のように巧く切り取っている。テレビやラジオで視聴するか、スタンドから観るのが普通であるプロ野球のスター選手をコンビニで見かけることは稀少なはずだ。しかし、そこでウィーラー選手は、平素のように買い物をしている。そしてまた、それを平然と、淡々と詠みきっているところが面白い。ホームランは、彼が街なかに出現するノンフィクションの伏線だろうか。活躍した日だからこそ、堂々とコンビニで買い物できるのだろう。もしくは作者が、壷の近くでくしゃみをすると現れるのかもしれないが。 


人知れず蚕を飼っている人は見れば分かるよカイコ顔して

(筑紫野 二宮正博)

 んなわけあるかいっていうツッコミを待っているのだろうか。だけどこうして、ヒト、カイコ、ヒト、カイコという順番で呪文をかけられると、やっぱり飼い主はカイコ顔してるのかなと思わされてしまう。飼い蚕が人に似るのか、飼い主が蚕に似るのかは分からないけど。もしかしたら下の四、五句を入れ替えて「カイコ顔して見れば分かるよ」という歌意で、カイコ顔で見つめると人知れず蚕を飼っている飼い主が、分かりやすく反応しちゃうのかもしれない。



割れやすき卵とそうでない卵割れやすきものを我に与えよ

(東京 やすふじまさひろ)

 何故だ、何故なんだ、どうして割れやすい卵を欲するんだ、と一読してまず思った。なんでだ、なんでだ、卵はみんな割れやすいんじゃないのか、と次に思った。もしかしたら茹で卵なのか、生じゃないのか、だったら割れやすさより剥きやすさのほうが重要じゃないのか、と次々に疑問が産まれる卵だ。そして、我はいったい、与えよと誰に対して言っているんだ。上下の句と結句の頭で三回もワレが出てくるんだけど、我の立場はまったく解らない。マヨネーズ工場のアルバイトなのか。作者も読者も自由なんだからもう好き勝手に解釈させてもらおう。作者は、生卵を買って自転車で砂利道を全速力で帰る際に、七難八苦を欲しているのだろう。読み手を惹き込む手法は様々だが、こういう奇妙な手法の作品もレアで好きだ。



玉砂利の白さは不敵しゅらしゅらと同じ結句ばかり浮かぶ夏

(東京 櫻井朋子)

 詠んでいる状況を詠んでいる二重世界へと、読者をも惹き込んでしまうオノマトペと、末尾の夏が効果的。ただでさえ思考が鈍る夏なのに、白い地面に照り返された陽射しがそれを加速させている。その眩いほどに白い世界が、余白だらけの歌稿を想起させる。繰り返し浮かぶ同じ結句が良くないとは限らないが、その判断力さえも奪う白さだ。しゅらしゅらは創作脳に戦いを挑む悪神の修羅が与えた修羅場だろうか。玉砂利というと、鈴木美紀子さんの聚光院の恋歌や、玉砂利のいくつかを眼球に喩えた林和清さんの名歌も印象的だけど、この作品も明白に記憶に残る一首だ。

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