第4章 みんな生きている 24. ドネモアダルジョン(お金くれ)
さて、発展途上国のジブチでの「お金」にまつわる話。
貧困は、ジブチの初日で物乞いの洗礼を受けた。
ジブチでは、道端を歩いていると、通りすがりの見知らぬ子供たちや目が見えない障害者から話しかけられる。
「ドネモアダルジョン(お金くれ)」
片手は私の方へ差し出してお金をせがみ、もう片手は自分の口へ寄せて「お腹が空いているから食べ物が食べたい」という仕草をする。
私は、こうした光景を何度も見てきた。
私はこうした状況を改善するために、青年海外協力隊として活動しているが、こうした「物乞い」に対して、結局一度も施しをしたことがない。それは、お金の施しは後に何も残らず、お金を損失しただけになってしまう。この手の出費(寄付)は「浪費」でしかないと考えているからである。
そんなことを言うと「困っている人への施しは、人間として当たり前の対応」「おまえは金を抱え込んでいるだけの冷酷な人間だ」とバッシングを受けるかもしれない。
しかし、私にとってはお金を使った後(失った)後に残っているものが何なのかが重要なのだ。それが正しい考えとは思っていない。自分がそうしたいだけの話だ。
ジブチでは、率先して道端に座り込んでいる貧しい障害者へ歩み寄り、立ち止まって小銭をその方へ渡したりする人もいる。困っている人には惜しみなくお金を提供する光景を目にするのは珍しくない。
▲バスターミナルにあるバス
私自身も、偶然、施しを受けたことがある。ジブチで私がバスに乗った時、ある男が、私を含めた満車の乗客全員のバス代金を全て払ってくれた。
500フラン(300円)×30人程=約15,000フラン(9,000円)。
見知らぬ乗客全員分の支払いをするこの男の行為は、富める者が貧しい者を助けるイスラム教的な側面があっての行為なのか、私には知る由もなかったが、とても印象的だった。これがジブチ人のお金や貧困にかかわる考え方の一つなのかもしれないが、私には理解ができない。
ある日、私は「ドネモアダルジョン(お金くれ)」という子供に「ノー(ダメだ)」と言った。すると、
「おまえはエゴイスト(自らの利益だけを追い求める人)だ」
と言われた。
信頼関係ができているジブチ人から言われるなら未だしも、全く見ず知らずの子供から突然「お金くれ」と言われても「どっちがエゴイストなんだ?」と思ってしまう。
堂々と、ドネモアダルジョンを言える状態になってしまった国は、本当に発展途上から抜け出す思いがあるのだろうか? 一方でドネモアダルジョンがあることで支援が得られているとも考えているのではないだろうか? この議論は難しい。 だからこそ、自分自身の考えを持つ必要がある。
結局は、自分自身でできる行動しかできないのである。
▲バスターミナルにいた女の子
▲通月中の小学生
▲日陰で休憩中の親子
▲可愛い子供
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