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【書評】『あるはなく』千葉優作歌集

静かな語り口で、統一感のある美意識を感じる歌集だ。
ロマンチストだったり、寂しがりだったり、少しハードボイルドだったり、
隠し立てなく正直な主体の姿が次々と立ち現れてくる。

あの夏のきみにまつはる思ひ出のすべてが夏の季語だつたこと

願ひごとみたいに遠いあなたへと夜ごとに白い鳩を飛ばすよ

好きだつたことは伝へず春の夜の別れにあたたかいカクテルを

抱き合へば風はさくらを降らすだらう春のぼくらを遠景にして

泣いたあとしづかに顔を拭ふ朝あなたは冬のけやきにもどる

たましひ、と書くとき不意によみがへるあなたのこゑが燃えてゐたこと


片恋の歌がせつなく、澄み渡って美しい。
一首目。きみが傍にいた「あの夏」。その思い出がすべて「夏の季語」だったと振り返る。
季語というからには、その言葉イコール夏を表す、ということだろう。
この場合は言葉ではなく、一つ一つの思い出がくっきりと夏を描くのだ。
それは万人に共通のものではなく、主体にだけ夏を思わせる秘められた記憶である。
二首目。あなたに会えない夜。あなたを想っている主体は、その想うという行為を「白い鳩を飛ばす」と表現する。
「願ひごとみたいに」という比喩が、暗に「叶わない」を含んでいるようでせつない。
三首目。まだ少し肌寒い春の夜、結局好意を伝えることなく別れゆく二人。
私は、ショットバーのようなところで二人でお酒を飲んだあと、別れてゆく情景ととった。
「別れにあたた、かいカクテルを」と句またがりになっているところに、断ち切れない想いが出ている。

四首目からは別の一連。抱き合わなくても桜は散るのだけれど、抱き合ったことを合図に風が桜を散らせるように感じる。
しかも春のぼくらを遠景にしているので、主役は桜と風なのだ。
五首目の「あなたは冬のけやきにもどる」という捉え方。あなたは立ち尽くしているのだろうか。
泣いた顔を拭う動作だけを挟んで、前後は大樹のように動きのないさまが伝わってくる。
六首目の声が燃えるとは、怒っていたのだろうか。
それともあなたの声自体がいつも燃えるように生命力に溢れていたのだろうか。
「たましひ」という言葉を書いたときに、あれこそが魂と形容すべきものだった、と思い出したのだろう。

かなしみの予兆のやうにしづかなりティッシュの箱を充たすティッシュは

靴紐を解けばそこにゐたはずのまぼろしの蝶二度とかへらず

くちびるをゆがめてひとはくるしさを冬の柱のごとく言ひたり

塩を足すやうにはゆかず 春の夜の結句五文字が決まらぬ歌は

比喩や物事の捉え方に、作者独特の視点がひかる歌も多い。
一首目。ティッシュの箱がティッシュに満ちていることを、この歌を読んで初めてまざまざと想像した。
主体はそれがまるで「かなしみの予兆のやう」だという。
二首目の「まぼろしの蝶」は、靴紐の蝶々結びだろう。紐を解けばそれは跡形もなく消えてしまう。
三首目の「冬の柱」も独特だ。主体は自然の厳しい北海道に住んでいるようなので、
それを思うと更に「冬の柱」の痛切さが際立ってくる。
くちびるをゆがめて話さねばならぬほどの苦しさ。それを共感しながらきちんと聞いている誠実な主体も浮かび上がる。
四首目はユニークな一首。結句が七文字ではなく五文字なのは、
もうすでに四句目が句またがりでできあがっちゃっているのだろう。
何でも入る最後の五文字。でも、えいやっと入れると「適当に入れたやろ」と見透かされる。悩ましい結句。

見上げれば虫に食はれたところから空に変はつてゐるさくらの葉

草原に昇る朝日のまぶしさよこの世はすべてひかりの的だ

睡蓮が水面をおほふ夏の午後こんなに明るい失明がある

鶏卵をこつりと割ればこの世でもあの世でもない時間がひらく

風景や、ちょっとした事柄を詠んだ歌にもそれぞれ気づきがあって、はっとさせられる。
虫食いを「虫に食われて綺麗じゃなくなった」とは捉えず、葉っぱのなくなった箇所が空に変わったと捉えたり、
草原に朝日が昇るさまを見て、この世はすべてひかりの的と捉える気持ちの豊かさ。
三首目の失明、という言葉は使うのに勇気がいったと思う。私なら避けてしまうかもしれない。
それでもこれ以外の言葉がないぐらいこれがぴったりだったのだろう。
この言葉で「明るすぎて何も見えない」状況を強い印象で読者に手渡している。
四首目も、卵を割ったというだけのことが、こんなに不穏な情景となっていて驚く。
この世でもあの世でもない隙間にある時間。
今日卵を割るのがちょっと怖くなる。

靴紐を結び終へたり いつかまたほどけるまでの旅がはじまる

リンス・イン・シャンプーの香につつまれて硬派になんてなれないおれだ

信用なんてするんぢやねえよ おれなんて靴下に穴空いてるんだぜ

ずつとゆふひをながめてゐたい ほんたうに行きたいところには行けないし

ちょっぴりハードボイルド、だけどユーモアいっぱいの主体。
きりっと靴紐を結んで、でも優しい香りをさせちゃって。
靴下に穴が開いていることを、(内心)カッコよく宣言する。
そして本当は夕陽を眺めていたいのだ。
本当に行きたいところって、一体どこなんだろう。

この他にも、祖母の死の前後の家族を描いた一連や、
生き物としての食材を思う歌など印象的な歌がたくさんあった。
連作タイトルの多くが連作中の一首の上句だったり
各章の冒頭に新古今和歌集などの歌が引用されていたり、随所に工夫が凝らされている。
手元に置いて何度も開きたい歌集である。

最後に心に沁みた一首。

くつたりと鍋の春菊やはらかく居場所はひとつあれば十分

                  (2022/12 青磁社)

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