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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第1話

《あらすじ》

啓介けいすけは「喫茶ひなた」を一人で切り盛りしている。親友、光司こうじの妹、香乃かのは小さな頃から啓介のことが大好きで、今は喫茶ひなたの向かいのケーキ屋「フレイズ」でアルバイトをしている女子高生だ。 喫茶ひなたの常連だったゆいは三カ月ぶりに店を訪れ、成り行きで三人とお花見に行くことに。最初は嫉妬していた香乃だったが、話している内に結と打ち解けるのだった。 昔の恋人の結婚を知り、今の恋人と上手くいかなくなっている結。 自分の進む道に悩む光司。 啓介への恋心が叶わない香乃。 彼らの心を温めてくれるのは、いつも変わらずぶれることのない啓介であり、また彼の入れるコーヒーであり、美味しいものを食べる時間なのであった。

《第1話》
-桜舞う午後- 

〈 結 〉

 古びた木製の扉を身体ごと押すように開けると、ぶら下げられたベルが意外に低い音でちりんとなる。そして決して耳触りでない、きい、という開閉音。その向こうに広がる空間は薄暗く、しかし窓際のエリアだけは大きなガラス窓から降り注ぐ春の陽光で、眩しいくらいに明るく光っている。暖かな風がドアの開いた振動でかすかに吹いたかと思うと、ぱたりとやんだ。一切のBGMを拒否し、一切の時計的なものを排除した場所。その何もかもが三カ月前のままなのを確認して安心し、ゆいは後ろ手に重い扉を閉めた。変わらない、苦いコーヒーの香り。変わらず並べられたボーンチャイナのカップ。

 そして変わらずにそのカップを磨いていたケイスケは、つと顔を上げると、小さな声でいらっしゃいませと頭を下げた。傾げるといった方が正確なぐらいかすかなお辞儀。でもそれはこの小さくて時代遅れ気味の喫茶店に似合った仕草だった。そしてその仕草と表情で、何となく、ケイスケが私のことを覚えてくれていたことがわかった。あたかも三カ月(それは季節を一つ越える、長い時間だと結は思うのだが)などというブランクはなかったかのように。そんなことを考えながら結は特等席だった窓際の二人席に着いた。結の他に客は誰もいない。

 額縁で切り取られた写実的な絵のように、ここからは外が見える。とはいえこの絵画は、一時も静止することを知らない。きらきらと暖かそうな光を反射させながら、舗道沿いに植えられたパンジーが紫や白の色彩を揺らせている。すぐそこの公園から流されてきた桜の花びらが、風の動きに合わせて渦を巻いている。かと思えば向かいのケーキ屋や雑貨屋に人が出入りする。その間の細い道を時折通る車や自転車。郵便屋さんの赤いバイク。結はここからの景色を飽かず眺める。少し前まで、習慣にしていたように。

 そう言えば郵便屋さんのバイクを見るのは小さい頃から好きだったな、と結はふと思い出した。いろんな人の沢山の夢を運んでいる。そう信じていた。今はもちろん、運ばれているのがいい知らせばかりではないことぐらいわかっているけど、それでも当時の結は信じていたのだ。夢を運ぶ人。結は郵便屋さんにはならなかったものの、彼女もまた、夢を運ぶ仕事に就いた。でもその仕事は最近、結に手ひどいしっぺ返しをしてきた。

 注文を取りに来たケイスケにカプチーノを頼む。結はこの瞬間と会計の時にしか彼と言葉を交わしたことがなかった。結は今日みたいな日曜の午後三時頃、ぼんやりと窓の外を眺めるためか、本の続きを読むためだけに来ていたし、ケイスケの方は、おそらく彼のポリシーなのだろう、会話をしに来る客とはそれなりに相槌を打ったりするが、結のように静かに過ごしたくて来る客とは一定の距離を保つよう心掛けているようだった。だからもちろん、ケイスケという名前も本人に直接聞いたわけではない。常連らしいおじさんに、よく「ケイスケ君」と呼ばれていたのを聞き知っているだけにすぎないのだ。

 テーブルにカプチーノが来ると、結は休むことなく陽射しを送り込んでいる、大きな窓に改めて向き直った。大きめのマグに口をつけると、温かで濃厚な液体が生き物のように喉を伝った。今なら整理できるだろうか。結は思う。この頭のなかにとっ散らかった様々な思いの断片を。やっと少し時が経って、このお気に入りの店にでも来てみようか、と思えた今ならば。

 それともまだ踏み込むには早すぎるだろうか。いっそこのまま葬り去ってしまうか。いや、と結はかすかに首を振る。葬り去ることはできないだろう。自分の頭や胸や、身体中に残る感情、怒りや侮蔑や、分類さえできないような雑多な感情を、粗大ごみの日にまとめてぽいと捨てるような真似はできないのだ。そんなこと、今まで生きてきてよくわかってるじゃないか。

 たいしたことじゃない、と結は頭の中で繰り返す。職場であるホテルの結婚式プランの見学会に、かつての恋人が偶然やってきた、それだけのことだ。もちろん彼は結がそのホテルで働いているなんて露ほども思わなかったろうし、そもそも結がウェディングプランナーに転職したことさえ知らないはずだった。知っていて婚約者を見せびらかしにくるような人でないということは、結が一番よくわかっていた。

 それでも結は彼に気づいた途端、心臓がものすごい心拍数で暴れ回るのを感じ、息ができなくなって転がるようにチャペルのドアから事務所に戻った。束ねていた書類が乾いた音を立てて床に広がるのを拾うことさえできなかった。かつての恋人が連れていたのは彼自身の職場の後輩だった。彼が見せてくれた会社の飲み会の写真には必ず写っていたので、面識はなくてもすぐにわかった。

 彼の情熱からまず熱が薄れ、それから情が弱まってくるまでにたいして時間はかからなかった。天秤の傾きが逆になっていく様は結にもよく見えた。浮気などという言葉を軽々しく使うことを、結は避けた。その言葉は結には、ただ付き合っているだけの男女がお互いに使うような単語にはどうしても思えなかった。何の約束にも縛られていない二人の間に「浮気」も何もないだろう。心は変わることがあるし、悲しいけれどそれをとめる権利はない。理論的な性格の結がそんな持論を胸で持て余している間に、突然大きな音とともに天秤は均衛を失い、あちら側に傾いて、男は結に別れを告げた。

 そしてあの日初めて、結は天秤の向こうにあったものを、彼女が実体を持って動き回るのを見た。だからといってなぜこんなに動揺しなければならないのか。何て心が狭いのだろう。私にだって今ではもう恋人がいるというのに。こっちはよくてあっちは駄目なんて、勝手すぎる。

 また一陣の風が吹き、桜の花びらが流されてくる。子供が群れて遊んでいるように輪になってくるりと回る。アスファルトが薄桃色に染まり、黒々とした本来の色と混ざってまだら模様になる。ピンクとダークグレーというのは、なかなかいいコーディネート。記憶から今ここに戻ってきた結が、地面近くをふらふらと舞う花びらを目で追っていると、突然視界の隅で何かが激しく動く気配がした。そちらに目をやると、白猫が、少なくとも本来は白いはずの、少し汚れた猫が、道を挟んだ向かいのケーキ屋の角で、後ろ脚で立ち上がるようにして顔の前で手を交互にかいている。大きな窓枠のなかで、そこだけ早送りしているような俊敏さだった。しばらく手をかき、疲れるのかふいに四つ足に戻る。また立ち上がってかき始める。まるで仕込まれた芸を見ているようだ。

「ねえ、」

 思わず呼びかけていた。それがどこか別の場所から発せられた声音のように自分の耳に届いて、結は驚く。カウンターで何やら作業をしていたケイスケもびっくりしたように顔をあげた。

「あれ、なに?」

 結が指差すと、ケイスケは作業を中断してこちらにやってきた。そして横から親き込むように顔を傾げ、ああ、あれ、とその顔を崩した。

「面白いでしょう。あの角の換気口からケーキの匂いが出てるんですよ。」

 見慣れているような口ぶりだったが、見慣れていても笑いは収まらないという感じで、ふふっと息を漏らした。眼差しが優しい。慈しむように猫を見ている。

「ケーキ。」

「ええ、あの猫、甘党なんです。」

 結が彼から視線を外し、もう一度猫に向けたその時、ちょうどそのケーキ屋のドアが勢いよく開いて、中から小柄な女の子が出てきた。頭に巻いたワインレッドのバンダナと同じ色のエプロンで、一目で店の店員だとわかる。女の子はケーキ屋の入口の、レンガ模様の二段の段差を一気に飛び降りて猫に近づくと、手慣れた動作で手に持っていた黄色い塊をぽーんと猫に放った。それを待っていたかのように猫はさっきまでの奇妙なポーズをやめ、本来の動物的な動きを発揮してそれに飛びつくと、ぺろぺろとなめ始めた。それを見ながら女の子が何か言うように口を開いた。声をかけたように見えた。そう、猫に。

「栗なんです。」

 突然言われて何のことかわからず、視線を猫に留めたまま、え、と聞き返す。

「猫が食ってるやつ。モンブランの上のとこ。」

 ぱっと何かを感じたように女の子が顔をあげ、その視線が結にまともにぶつかった。でも女の子は結のことなど目に入らなかったように、すぐにその視線を結の後ろにずらせた。彼女の顔が開花した向日葵のように笑みでいっぱいになる。芯が強く、生命力に富んだ、そんな笑顔。その笑顔の残像を残して、突然ケーキ屋のドアの向こうに消えてしまった。

「あれ?」

「いや、」

 なぜか後ろで応じる声がした。振り向くと何とも形容しがたい顔が浮かんでいる。

「・・・来るな。」

 予言のような呟きの後、本当に女の子がもう一度姿を現した。真っすぐこちらに向かってくる。手に小さな白い箱を携えている。通りの向こうでは猫がまだ、栗を食べている。

 勢いよくドアが開く。チリンチリン。ベルが二回鳴った。結が鳴らすときより元気のいい高い音。その子が入ってきただけで、甘い香りが店内に充ちた。砂糖菓子の香り。猫の気持ちがちょっとわかる気がする。

「アキナ、何してんの?」

 そして突然そう言った。誰を呼んだのかと驚いたが、素早くカウンターに戻っていたケイスケが振り向いたのでもっと驚いた。

「この店ですることと言ったら決まってる。」

 返事などどうでもいいという感じて、ちょうど彼が立っている真ん前のスツールに腰を下ろした。

「ねえ、今日すごいよ。お客来すぎ。ふわふわプリン売り切れちゃって今第二弾できたとこ。やっぱみんな花より団子だね。」

 そこは、と声が遮った。

「営業妨害的な位置なんだが。」

 ぷーっと膨れてスツールから飛び降りる。目まぐるしい子だ。

「なーによ、せっかくこれ持ってきてあげたのに。これ、あげる。昨日の残り。」

 持ってきた箱をカウンターに滑らせる。彼の視線が箱をとらえて、すぐ元に、彼女の顔に戻った。

「昨日の残り? 今頃の時間に?」

「うん。」

 屈託なく頷く。高く結んだポニーテールがそれに合わせて上下する。彼女はいつの間にかバンダナを外していた。

「だって、昨日チーズケーキばっかり三つも残っちゃったから。アタシと兄貴で二つ食べて、一個持ってきた。」

「それを今日、この時間になってわざわざ持ってきてくれたわけだ。」

「だからぁ、」

 じれったそうに女の子は身体を捻じる。その一言一言が楽しくて仕方がないというように。

「だーいじょうぶだって。アキナってどんなけ心配症? アタシも兄貴も今日の朝食べたんだよ?」

 カウンターの向こうでアキナと呼び捨てにされている彼は口を歪めた。

「お前ら、朝からこれを食うか。」

「チーズケーキだもん。イッツ・ヘルスィー。」

 スィ、のところに力を込めてそう言ったあと、くるりと身体を反転させる。一瞬、結と視線がぶつかったが意識にものぼらなかったようだ。そのまま戸口へ向かう。

「あ、おい、香乃かの。」

 呼ばれた女の子はバネ仕掛けのように身体を震わせ、振り返った。

「なに?」

「お前、あんまりマロンに甘いもんやるなよ。」

「えーっ、ちょっとぐらいいいじゃない。」

「身体にいい悪いより、これ以上太ったら猫らしさがなくなる。」

 あはは、とはっきりした声で笑ってドアを抜けると、そのままの勢いで向かいの店の中に消えていった。甘い香りだけが店内に残る。それはまるでこの窓から時折見える、桜の花びらを含んだ一陣の風のように清々しく暖かだった。すべてはケイスケに向けられていた。一点集中の若々しい愛情。またそれは暖かな中にひやりとする何かを抱えてもいる。名前を呼ばれたときの痛みを伴う表情。一歩間違えば手を切るかもしれないようなギリギリの愛情を、私は誰かにぶつけたことがあっただろうか。

 今、この短い時間でケイスケに全力でぶつかっていた彼女が、結には好もしく思えた。そしてあの、ケイスケのさらりと受け入れるような軽やかさも。

 カタ、と間近で音がして振り向くと、ケイスケが立っていて、結のテーブルに焦げ茶色のクッキーを運んできたところだった。

「これ、うるさくしたお詫びです。今の箱に一緒に入ってたので、よかったら。」

 そう言ってから慌てて、

「もちろん、こっちは賞味期限は大丈夫です。」

 と付け足した。結は胸の前で小さく手を振ってみせた。

「そんな、彼女の気持ちをもらっちゃ悪いわ。」

 それからあの子とのことをちょっと茶化してやろうかと考えて、結局違うことを言った。

「あなたって、結構喋るのね。」

ケイスケは目を丸くして自分の鼻を指さしてみせた。

「嫌ですねぇ、プライベートを垣間見られたみたいで。あいつは幼馴染みの妹で。うるさいばっかりで困ります。」

 そう言いながら首を振り振りカウンターへと戻っていく。結は微笑ましい気持ちで彼の後ろ姿をしばらくじっと眺めてから、クッキーに手を伸ばした。ココア味の生地に松の実が練り込まれていた。甘さと渋さ。さっきの女の子はきっと甘さ八十パーセントぐらい。今の私はおそらく渋さの方がだいぶ勝っている。

 結はカプチーノの最後の一口を口に含む。窓の向こうの通りでは相変わらず桜が渦を巻きながら滞留している。その時またふいに向かいのケーキ屋のドアが開き、さっきの女の子が出てきた。もうエプロンも外しているので帰るところだろう。彼女が視線を上げる。結は虚を突かれた。厳しい目だ、と思う。刺すような目だった。でも射貫かれているのは他者ではなかった。彼女の鋭さは自分自身に向けられているようだった。店に戻っていったのとは全くと言っていいほど異なる眼差しで、ケーキ屋の女の子はレンガ模様の段差を降り、赤い自転車でこの四角く切り取られた枠から飛び出していった。

 猫も、いつの間にかいなくなっている。


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