見出し画像

【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第5話

〈 香乃 〉

 突然、ごめんね、と謝られてびっくりした。そしてどうしてこんなにびっくりしたのか、その理由がすぐ後から追いついてきた。多分、謝る大人なんて初めて見たからだ。

 焼きソバと焼き鳥を平らげてもまだ満腹には程遠いと言う光司が、アキナを引き連れて屋台に舞い戻っていった。人混みの中でやっと見つけた日陰の一画。持ってきたギンガムチェックのビニールシートを敷いて、香乃は結とぼんやり座っていた。対角線に座っていた二人が抜けると、奇妙に離れて見える。香乃は喋ることが思いつけず、気づまりだった。早く二人が帰ってくればいいのに、とばかり思っていた。その時、ふいを突かれた。言葉を返せず目を見開いていると、結が大きく微笑んだ。

「私みたいなのがついてきちゃって。楽しいのを半減させちゃった。」

 すぐに否定しようとしたのに、上手くいかない。あまりにそのとおりだと思った。でも何を根拠にこの人はこんなことを言うのだろう。不機嫌を隠すのは昔っから慣れっこになっている。元気で明るい香乃ちゃん。外向きのアタシ。

「どうしてですか?」

 やっと声が出た。でもそれは香乃が予想していたよりトーンの低い、抑揚のない声だった。詰問しているみたいな、嫌な響きだ。でも膝を抱えて座っている目の前のこの人は、まだ微笑みを浮かべたままだ。

「だって、紅一点の予定が、蓋を開けたら他にも女が混ざってたってのは、女性なら誰でもむっとすると思う。年齢問わず。」

 ふうん、と思って香乃は遠くを見やる。アタシは今、そういうことに腹を立てているのだろうか。確かにこの人にも腹を立てているけど、アキナにも腹を立てている。どうして偶然あの場に居合わせたにすぎない常連客なんかに声を掛けたのか。そしてどうしてこの人は簡単についてきたのか。もしかしたらこの人、アキナを狙ってるんじゃないか。アキナのことなんて何も知らないくせに。言業にならないダークな感情の塊が、香乃の中でぶつかっては波を立てている。 嫉妬。偶然開いた辞書のページに載っていたみたいに、香乃の頭にその言葉が浮かぶ。

 まさか。こんなおばさんに嫉妬なんてするわけがない。それでも今日のアキナはなぜだか遠く感じる。アタシよりこの人に優しいから。気を遣ってるだけなんだろうけど。香乃は少し離れた屋台の方に目を凝らす。早く帰ってきて、アキナ。アタシはあなたを必要としている。

「でもね、」

 香乃の耳に結の言葉の続きが聞こえてくる。

「ここにもう一度来てみたかったの。前に来た時と別の人達と来れば、違った見え方がするかなと思って。」

「前に来た時?」

「そう、とても好きだった人。世界にその人しかいないと思ってた人。」

 まだ屋台の方に目を向けていた香乃が、思わず振り返った。結はまだ膝を抱えた格好で反対側の遠い桜を見ていた。謝る大人も初めて見たが、物事を包み隠さず喋る大人も初めてだ。結の一人語りを聞きながら香乃は密かに思った。

 好きだった人との突然の別れ。その人を職場で偶然見かけたこと。その時そいつが彼女を連れていたこと。それで不本意にも打ちのめされたこと。愚痴のようでは全然なかった。そもそもアタシに愚痴っても何の意味もないもんな、と香乃は思う。それよりは、まるでアタシに聞かせておかなきゃいけないみたいに、この人は話を整理して順序よく喋っている。

 「今の恋人は、」

 やがて結がそう言葉を継いだ時、初めて香乃は、え?と声を上げた。それまではただ黙って聞いていたのだ。ビニールシートの真ん中で目と目が合った。

「彼氏いるんですか?」

 あまりにはっきり尋ねられたからだろう、結は苦笑した。鼻の頭に皺を寄せる。

「一応、ね。でももう何カ月も会ってない。私の気持ちの整理ができるまで会っちゃいけない気がして。」

「平気なの?」

「平気じゃない。」

 結の口調が少し強くなった。

「だけど私が引き受けなくちゃならない。じゃないと先に進めない。相手には申し訳ないけど。」

 そこで唐突に結の話は終わった。散らかったトレーや空き缶をビニール袋に片付け始める。香乃はそれをぼおっと眺めていた。どうしてこんな打ち明け話をアタシにしたんだろう。よく知りもしないこんな高校生相手に。腑に落ちないけど嫌な気持ちでもなかった。

 ふうん、こんな大人もいるのか。無理に言葉にすればそんな感じ。香乃は大きな赤いトートバッグの中から、おもむろに小ぶりのクーラーバッグを取り出すと、はい、と結の前に置いた。零れたビールを拭いていた結が、きょとんとした顔を上げる。

「ヤツらが戻って来ないうちに選んでください。早い者勝ちです。」

 箱の中にはケーキが四つ並んでいた。ここへ来るまでに走ったりしたので、ちょっと片寄っている。わー、と結が子供じみた声を上げた。

「お花見に行くって言ったらいただいちゃったんです。」

 本当に、星野夫妻がくれたのだった。せっかくだから好きなのを選んで。いつもお世話になってるし。最後のは親に向けた言葉で余計だったが、星野夫妻にもちろん悪気はないのだし、とありがたくもらってきたのだ。

「いいの? 私が最初に選んで。」

 いつもだったら真っ先に選んでほしいのはアキナだったが、香乃はすとんと頷いた。そういう気分だった。

 じゃ、これにする、と結が箱から選んだのは、ベリーのタルトだった。タルト生地の上にブルーベリー入りのクリームチーズをしぼり、更にその上に生のブルーベリーとラズベリーとクランベリーを下が見えないほど飾り付けた一品。このタルトは、一口齧るとその瞬間、寂しさが生まれるほどの酸味がある、と香乃は思う。どこからやって来る寂しさかは知らないが、寂しくなると誰かに会いたくなる。この酸味を共有したくなる、そんな味。

「それで、見え方違ったんですか?」

「え、何?」

 タルトを目の高さに掲げて、まだそれに見とれていた結が慌てて香乃の方を向いた。香乃は先程歩いてきた八重桜の並木の方を指差す。ああ、と結がまた微笑む。

「違った違った。桜、綺麗だった。」

「綺麗?」

「うん。前はほとんど見てなかったから。」

 へへ、と今度は照れたような笑いを浮かべる。香乃はどきりとした。一瞬息が詰まった。アタシもそうだった、と気づく。アタシも花なんてちっとも見てなかった。アキナの顎の線ばかり見ていた。前を行くアキナの頭とか、振り返った眼差しとか。

 屋台に向かう人の波に逆らうように、両手に食べ物を持った光司が小さく見えて、その後ろにアキナの姿を認めた時、香乃は涙ぐみそうになる。とても長い時間離れ離れになっていたように思う。隣で結が呑気に手を振っている。身体中が締め付けられるような感覚を振りほどくように、香乃は勢いよく立ち上がってサンダルに足を通す。生暖かい川原の風がざわりと揺れた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?