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【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第9話

〈 光司 〉

 狭いパーキングに会社の馬鹿でかいバンを入れてしまうと、光司はしばらくの間、運転席に座ったままぼんやりと前方を眺めていた。動きの止まったワイパーはもはや何の役目も果たしておらず、一層強さを増す雨粒で視界はどんどん霞んで見える。光司は背もたれに深くもたれた姿勢のまま、両手で顔をぐっとこすった。それから濡れそぼった傘を引き寄せ、ドアを開ける。一心に降る冷たい雨の中を踏み出す。

 何度やってもあまり気の進む来訪ではない。重い荷物と共にじめじめした階段を上りながら、光司はそれを意識している。部屋のドアを開けた啓介は案外元気な足取りをしており、光司はほっと息をつく。何を想定していたわけでもない。それなのに啓介が普段どおりなことは、こういう時、特別な意味を持つような気がする。

 啓介の部屋は基本的に物が少なくいつも綺麗に整頓されているが、それだけでなくある秩序に基づいているので、一層整然と見える。モノトーンと青だけの色彩。その努力のお陰で安い1Kの部屋がモデルルームのように統一感を保っている。俺には絶対真似できない芸当だ、と光司は常々思っていた。クリームがかった白いテーブルに揃いの椅子、その上に乗せられた空色のマグ、群青のカーテンとベッドカバー。小ぶりの黒い本棚には青いカバーの写真集が、表紙をこちらに向けてディスプレイされている。空の写真集と、イルカの写真集。こいつは南国かどこかにいるらしい、青い物ばかり集めて巣作りする鳥の生まれ変わりなんじゃないか。光司はここを訪れる度、よくそんなことを思う。

「別に来なくてもいいって言ったろう?」

 啓介は不服そうにそう述べながら、小さなキッチンで湯を沸かしている。コーヒーを淹れてくれるのだろう。寝込んでいる人間に働かせるのは忍びないが、止めても聞かないのはわかっているのでそのままにしておく。コーヒー淹れはもはや啓介の趣味だ。

「タダなんだろうな?」

「店のみたいに旨くはない。」

 そう言いながらも啓介は戸棚から豆を出して挽き始める。ことこれに関して、啓介は妥協しない。店と同じぐらいの器具を揃えている。コーヒーミル、コーヒーケトル、骨のように白いカップ。

「おまえ、もう熱は下がったのか?」

「ああ。」

 後ろ姿の啓介は短く答えた。

 幼い頃、啓介はよく入院した。手術をする前も、した後も。しかし成長するにつれ、入院はもとより体調を崩すこともほとんどなくなった。最近では風邪さえ滅多にひかない。それでも時々、発熱することがある。それは別に啓介の心臓が原因の症状ではないと主治医も言っているし、誰だって疲れが溜まれば少々の熱くらい出す、そんな種類のものだ。

 それでも啓介はそういう時、大事をとって二、三日はゆっくり休む。忘れないでくれ、心臓がそう言ってるんだろう。啓介はそんなふうに言ったりする。こいつは二十四時間働き詰めの割りには報われないと思ってるはずだからな。啓介の心臓。そのために啓介は啓介らしくあり続ける。いつも身辺整理をしているようなシンプルな生き方。起こることはすべて予期しているような、ゆったりとした落ち着き。それは、何が起きても心臓が止まることを思えば大したことではない、という皮肉なバランスの上に成り立っている。突き詰めれば巨大な恐怖が横たわっているのに、啓介はそれを否定も肯定もせず、共に歩く協約を結んでしまっているのだ。

 そもそもそんな協約など必要ないのに。彼の心はもう健全であるはずなのに。幼い頃から啓介は、その心に、決定権の役割を与えてしまった。それが正しいことなのかそうでないのか、光司には判断できない。ただ、時折無性に寂しくなる。光司はテーブルの上に置いていたケースをおもむろに開ける。中から煤けた鍋が覗いた。光司のためにコーヒーと、コーヒー用のミルクを運んできた啓介が、横からそれに目を留めて、口の端だけでふっと笑った。

「メシなら自分で作れるのに。」

 鍋をコンロまで運びながら、そうかぁ?と光司は声を上げる。

「店じゃあちゃんと作るくせに、おまえ自分のためにはあんまり料理しないじゃないか。」

 正論だったようで、啓介は返事をよこさなかった。光司は鍋を弱火にかける。蓋を取るとお玉でぐるりと中をかき混ぜる。ニンジン、白菜、シャガイモ、タマネギ、ブロッコリーに細かく切ったベーコン。コショウの効いた栄養満点の野菜スープ。それからテーブルに戻ってカップのコーヒーにミルクを足すと、立ったままぐっと一口飲んだ。喫茶ひなたで飲むのと同じ味がした。

「礼を言っといてくれよ、いつも申し訳ない。」

 啓介がテーブルの反対側の椅子に座って、水を飲みながらぼそぼそと言う。光司は一瞬言い淀んでから、違う、と口に出す。

「これはいつもみたいに店の仕込みをもらってきたヤツじゃないんだ。」

 啓介はグラス持った手を空中に浮かせたまま、しばらくきょとんとした顔で光司の顔を見ていたが、突然ひらめいたように、嬉しそうな表情になると、急いで立ち上がって鍋に歩み寄った。

「おまえ、ちったぁじっとしてろよ。病人だろ?」

 啓介は聞いていない。勝手に鍋の蓋を取ってその中を見つめている。

「ついにあのバオバブの御曹司が目覚めたわけだ。」

「別に寝てたわけじゃないんだよ。」

 光司はそう言い返しながら、やはり啓介は鋭い、と思う。何でもかんでも超能力者のように見越している。たったスープの鍋一つで、光司は啓介に、自分の心境の変化を感じ取られたことに気づく。発熱していても啓介のセンサーは健在だ。

 昨日の深夜にも光司は親の経営するレストランの厨房を借りていた。寝込んでいる男に野菜スープを作るために。自分以外の人間のために料理を作るのは生まれて初めてで、それが啓介であることは自然でもあるし不自然でもあった。一番近しい人間、という自然。どうして男の俺が男のおまえに、という不自然。原型をとどめないほど野菜を深々と煮込みながら、体調を崩した男のために深夜いそいそ料理を作っている自分に、光司は苦笑した。

 啓介のために料理を作ることは、啓介のためであるとともに一つの実験でもあった。料理への熱意がちゃんとしたものであるかを計るための手はじめの実験。それが映像への思いと同じような曖昧な気持ちであることを、光司は恐れていた。そしてこれ以上回り道をしていては袋小路に入ってしまう、そんな不安。それを打ち破るほどの真剣さを料理に向けられるか、光司にはまだ自信がない。だからただ黙って鍋を見つめるしかなかった。

 大きめのスープ皿に入れられた野菜スープを、啓介は美味しそうに口に運んだ。部屋を満たす温かな香りと鮮やかな色彩。この場を統率している青いグラデーションを乱しているのは、スープの淡いオレンジ色と光司の派手な黄色のポロシャツだけだ。青の支配に取り込まれるのを恐れるかのようにわざと着てきた黄色のポロシャツ。

 やがて啓介は相変わらずの落ち着いた動作でゆったりと上下させていたスプーンを止めると、

「旨いじゃないか。」

と言って口の端だけでにやりと笑った。

「たかがスープだ。煮込みゃ誰だってできる。」

「でもマズいスープだってあるだろう。」

 そう言いながら溶け残ったジャガイモの欠片をスプーンで追いかけ回す啓介の頭を、光司は無言で見つめる。弱っているくせに強靭でしなやかな生き物。そんな得体の知れない生き物が俺の作った野菜スープを飲んでいる。

「今日はこれから香乃に会うか?」

 時間をかけてスープを平らげると、啓介は突然そんなことを尋ねた。勝手に二杯目のコーヒーを飲んでいた光司は軽く首を振る。

「いや、特に家に用はないから。」

 啓介は小さく溜め息をつくと、頬杖していた右手で顔を覆った。くぐもった声がその下から聞こえる。

「俺はまたあいつを泣かせてしまった。」

「なんだ、どうせまた無理言ってきたんだろ、愛するアキナ様に。でも、なに、まさかここに来たんじゃ、」

「珍しく電話をかけてきた。」

 光司の言葉を遮るように啓介が続ける。

「何でもフレイズに結さんが来て、俺の病気の話になったらしいよ。それでちょっと混乱して電話してきた。」

「でもお前は、その前半部分は多かれ少なかれ予想してただろ。」

 光司が決めつけるようにそう言うと、啓介は心底驚いた顔で光司を見た。啓介がこんな顔をすることなんて滅多にない。起こることはすべて見越している男だ。

「珍しく読みが深いじゃないか。」

「あったり前だ。長年おまえと付き合ってるとな。」

 光司は花見の後に気づいていた。どうして啓介が客の一人にすぎない結さんを誘ったのか。 いや、もちろん理由は一つではないだろう。一人で寂しそうに見えたとか、楽しい人だから仲間に入れたかったからとか。でも意識的にではないにしろ、啓介は結さんを香乃と喋らせたかったに違いない。それで香乃の世界が少しでも広がればいい。そう思ったのだろう。

「ベクトルが、」

  啓介はクリーム色のテーブルに指で線を引く真似をした。

「香乃のベクトルは俺にばかり向いてるから。」

「モテる男にしか言えん台詞だな。」

 うるさい、と返しながら、先程の直線と起点の同じ別の線を引く。

「ここにもう一本線を引くと、足したベクトルはこっちを向く。」

 啓介は最後に、二本の直線を隣り合う二辺とした平行四辺形の対角線となる線を引いた。その先に何があるかは、きっとさすがの啓介にもわからないのだろう。結さんという新しい存在を引き入れる。それは少々奇妙なやり方ではあっても、啓介の香乃への優しさであることに変わりはない。啓介なりの香乃への思い。

「しかしおまえよくそんなの知ってるなぁ。ベクトルとか、さ。」

 光司の言葉に、啓介は少しだけ微笑んだ。

「だって、おまえが受験のとき、散々聞かされたからな。ベクトルとか過去完了とか百年戦争とか。」

「なるほどな。俺はまったく覚えてないんだけど。」

 光司は突然昔の喫茶ひなたを思い出す。カウンター席でノートを広げてぼやいていた頃を思い出す。穏やかな顔で、コーヒーを片手に振り向く啓介を思い出す。あの頃からちっともぶれていない啓介と、いつも迷っている俺。

 ちょっと横になるけど眠るわけじゃないから、と言っていたくせに、光司がスープの残りをタッパーに入れ替えて冷蔵庫に仕舞い、洗い物を終えてベッドの近くまで来てみると、案の定啓介はぐっすり眠っていた。身動き一つせず、息さえしていないような深い眠り。やはりまだ体調が万全ではないのだろう。音を立てないようにそっと照明を落とすと、部屋は青い色彩に満たされた。外は相変わらず雨が降っているというのに、どこかからかすかな光が差し込んでいるのか、ベランダ側に頭を向けて眠っている啓介の顔を冴え冴えと照らしている。

 死者のようだ、と一瞬思ってしまったことを光司は強く後悔する。だから眠っている啓介を見るのは嫌なのに。だからこの部屋の色に馴染むのは嫌なのに。光司は自分の、黄色のポロシャツを着てくる、というささやかなレジスタンスが、今回も無力だったことを知る。

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