【小説】「喫茶ひなたに春が来て」第3話
〈 光司 〉
解けかけた靴紐を結び直そうと、カメラバッグを地面に置き片膝をつく。くるぶしまである頑丈なトレッキングブーツには不似合いな、桜の花びらが数枚張り付いている。撮影のため川の浅瀬に入った時にくっついた名残のようだ。光司はそれらを手早く払いのけてしまうと、靴紐をきつく結ぶ。夕闇が追い立てるように迫っていた。今日一日歩き回って撮影した、「晴れた日で、小川のせせらぎと美しく咲き乱れる桜が一緒に映っていること」という絶対条件をクリアした素材。それらのごっそり入ったビデオカメラの重いバッグをもう一度肩に掛けると、光司は大股で歩き出す。
最後の角を曲がると、商店の多い見慣れた通りに出る。街灯が目に眩しい。思わず目を閉じ、それからゆっくりと開ける。目指す店の前で光司は迷わず足を止める。剥げかがった銅のプレートには店の名前だけが簡潔に記されている。喫茶ひなた。光司はそこで強ばっていた肩の力をやっと抜くと、勢いよくその店のドアを開けた。
お客の誰もいない店の、カウンターのその向こうで、啓介はチーズケーキをぱくついていた。それだけで今日も妹の香乃が姿を見せたのだと察しがつく。
「それ、三日前のだぜ。」
カウンター席に腰かけながら光司が声をかけると、啓介は一瞬真顔でこちらを見つめてから、再び半分食べてしまったケーキに無言で視線を戻した。
「嘘だよ、ったく。」
啓介はむっとした様子も見せずにコーヒーに口をつける。いつもながらに感情の揺れが少ない人間である。
「妹も妹なら兄も兄だな。」
たしなめるようにそう言うと、ケーキの続きに取りかかった。光司はほっと息を吐いて、長い逡巡の一日が今日も終わったことを知る。とにもかくにも夜がやってきて、啓介は啓介然として、彼がいるべき場所に落ち着いている。
「それ食ったら、俺にもメシ頼む。何かある?」
ゆっくりケーキを満喫していた啓介が眉を寄せて顔を上げる。腕時計でちらりと時刻を確認する。この店には、啓介の腕にしか時計がない。
「何だ、食ってきたんじゃないのか?」
お客なんだったら先に言えよ、とぶつぶつ言いながら、それでも啓介は冷蔵庫に首を突っ込む。その首をぐるりと巡らす。
「ナポリタンなら。」
光司は、上等、と声をあげると大きく一つ伸びをした。
この時間になると、通りに面した一枚ガラスの窓は、巨大な鏡となって店内の様子を写し出す。柔らかな明かりが灯る古い喫茶店の中に差し向かいで男が二人。光司の日常に組み込まれている風景の一つだが、こうして客観的に見てしまうと何だか奇妙だ。通りの向こうには妹の香乃がアルバイトをするケーキ屋、フレイズがあり、そちらはとっくにシャッターが下りている。香乃は塾に行っているか、そうでなければ家で食事も終えているに違いない。憮然として、独りぼっちで、機械的に箸を動かしたに違いない。
「フレイズのチーズケーキ、旨かったか?」
パスタを茹でながら、隣のフライパンでハムやピーマンを炒めた始めた啓介が、訝しげに顔をあげる。
「旨いかって、お前食ったんじゃないのか?」
いや、と光司は首を振った。
「俺はほとんど食ったことないんだよ、特にケーキは。あいつがわざわざ俺に持ってくるわけもないし。」
光司はこの近くに小さな部屋を借りて一人暮らしをしている。だから香乃のもらってきた余りのケーキにありつくことはほとんどなかった。
「でも今日の朝食っただろう? 香乃がそう言ってた。」
食欲をそそる匂いが店内に溢れてきた。啓介はコーヒーも絶品だが、フライパンさばきも堂に入っている。光司はそれを眺めるのが好きだが、同時に複雑な感情も覚えてしまう。
「確かに今朝は荷物を取りに戻ったけど、食ったのはマドレーヌだよ。やっぱお菓子の修行をちゃんとした人の作るお菓子って、マドレーヌ一つとっても違うのな・・・」
と、ここまで話して、ふいに笑いがこみ上げてきた。
「お前、だからそれは、またあいつに担がれたんだよ。愛から出た嘘だ。愛しのアキナ様のために無い金出して買ってきたんだろ。」
啓介はしばらくの間、目を見開いて突っ立っていた。それから一つ息をつくと、パスタの水気を切ってフライパンに移す作業に戻る。ジャーッと軽快な音があがる。ソースとしっかり絡めると皿にあけ、スライスしたゆで卵も乗せてくれる。光司はその上から大量の粉チーズを振る。その間に啓介は彼専用のスツールに腰を掛けた。とても脚が長く作られているので、傍目には立っているのと同じに見える。
「だからクッキーまで入ってたんだな。」
「気づけよ、そこで。」
ずるずる、と音を立ててスパゲティを啜りながら、光司はきっぱりと言った。
香乃は啓介のことをとことん慕っている。それは恋愛というよりは、保護者を求めているようなものではないか、と光司は思っている。有名レストラン「バオバブの樹」のオーナーとして、その一切の料理を作っている二人の両親は、昔も今もレストランに、そこで扱う食材に、全ての精力を傾けているような人間だ。だからきっと人間の子供も栄養価の高い土さえ供給しておけば、南フランスのズッキーニみたいにすくすく育つと思っていたのだろう。それでも光司が小さい頃はまだ良かった。枯れかけていないか、虫にやられていないか、それなりに世話を焼いてくれた。
ところが香乃が小学生になった頃から、店は急激に「地元のちょっとお酒格なフレンチレストラン」から「予約が半年取れない超有名店」へと変貌した。有機野菜など身体に優しい食材を使う、という母の考え方に時代が追いついてきたわけだ。忙しくなっても両親は人を雇うことをしなかった。だから香乃の世話は、ほとんと光司がしたも同然だった。そしてその隣にはいつも啓介がいた。いつも変わらず優しい啓介に保護者の役割を求めたのも、当然と言えば当然だろう。
香乃は最近、ますます自分を取り巻く世界を敵とみなし始めているようだ。現実社会に拒絶反応を起こしているみたいに。そして味方はたった一人だけと決めている。啓介、ただ一人だけ。頑なに、一途に、たった一つの座席を空けて妹は待っている。
しかしそれは皮肉なことだと、フォークにパスタを巻きつけながら光司は考える。皿から目を上げると、光司が何も言わない内に、啓介はコーヒーを入れる準備をしている。穏やかな表情で立ち働く、その男の俯いた顔をしばらく見つめる。こいつは、啓介は、人を愛さないことに決めているのだった。
コーヒーがこぽこぽと音を立て始める。サイフォンの中で液体が小刻みに揺れている。化学の実験のようだ、と光司はいつも思う。旨いものは何だってこうした化学の実験の果てに生まれる。混ぜる、熱する、濾す。分子レベルの物質のぶつかり合い。啓介は、それらの反応を見守る学者のように、サイフォンを見つめている。ゆったりした微笑だ。大抵の啓介が漂わせている微笑だ。ちぇっ、と光司は心の中で舌打ちをする。何でもかんでも自分だけで決めちまいやがって、ゆったり構えてやがる。
「あいつの気持ちは相変わらず重荷か?」
珍しく直接的に問うと、啓介はサイフォンから光司に視線を移した。言葉を空中から探すように、少し首を傾げる。
「重荷というのとはちょっと違うな。ただ、責任が取れないんだよ。」
「その考え方ならあいつも重々承知だよ。」
責任、と啓介が言うとき、その重さに光司はたじろぐ。それは何度目であっても慣れることができない種類のたじろきだ。だから光司はそこから先に踏み込むことができない。言葉を見失って黙り込む。
骨のように白いカップに入れられたコーヒーが、光司の前に置かれる。その横に適温に温められたたっぷりのミルク。光司はブラックコーヒーに後から自分でミルクを入れて調節する、この飲み方が好きだった。初めからミルクまで調合されているカフェオレや、ミルクとは別物の気がするコーヒーフレッシュはあまり好きではない。啓介はブラック一辺倒なので、そもそも光司がコーヒーにミルクを入れること自体を邪道だと思っているのかもしれないが、それについては揶揄された記憶がなかった。そこはやはり客扱いしてくれているんだろう。
「今日はなにを撮ってきたんだ?」
光司がコーヒーに口をつけるのを待ってから、啓介は尋ねた。その目が、無造作にカウンターにのせてあるカメラバッグに向いている。中には最新のデジタルビデオカメラが入っていることを、もちろん啓介は知っている。
「真っ青な空、小川のせせらぎ、満開の桜。」
ぽんぽんと投げるように言うと、啓介はほお、と言うように口を尖らせ、大きく一度頷いてみせた。
「遠くまで行ってたわけだ。」
啓介の言うとおり、朝から何時間も車を運転してロケハンした。注文通りの風景を探し歩いて、やっと山間の小さな集落でそれを見つけることができた。ちょうど見頃の桜と、その下に流れる小川。光司としてはもう少し広い川を想定していたのだが、散々探した後だけに、そこまで求めるのは高望みと諦めた。あまり時間をロスすると、今度は太陽の位置が変わってイメージと食い違ってしまう。早朝には雲がかかって心配された空も、午前中には何とか晴れてそれなりの明度になった。空の色自体は画像処理できるが、やはり自然光はそのまま生かしたい。
「まあ、いいのが撮れたから遠くまでいった意味はあったよ。」
「何の依頼?」
「どっかの空港で流す映像らしい。ほら、待ち合いロビーとかにでかいスクリーンがあってさ、日本へようこそ、みたいなやつ。あれの下請けの下請け、の下請けぐらいかな。」
光司はアルバイトとして働かせてもらっているだけなので、実際のところ詳しいことはわからない。依頼主とか、完成したらどんなVTRになるかとか、最終的にどこで流されるのかとか。これこれこういう場所を探して撮ってこい、と指示を受けるだけだ。そして一人車を運転して出掛けてくる。
「とりあえず、お前が楽しんでるならいいことだ。」
穏やかな表情を変えないまま、啓介がぼそりと言う。光司はまた少しミルクを継ぎ足しながら、相変わらず鋭いヤツだと啓介の横顔を盗み見る。自分の中から生まれる不安に人並み外れて敏感で、それをコントロールする術に長けている啓介は、だから人の不安まで察知する能力を身につけている。味覚や嗅覚と同じぐらいリアルにだ。光司は今の自分の心配事を、早くも啓介に嗅ぎつけられたことを知る。不本意なのにほっとする、奇妙な感覚。お前が楽しんでるなら。わからない。そんなに簡単なことが、最近の光司にはわからなくなっている。
ああ、そうそう。光司はその迷いを断ち切るように大きな声を上げた。迷うのは仕事中だけでたくさんだと思い直したのだ。
「花見の話してなかったか? 香乃は。」
「してなかった。」
「焦って言いそびれたんだろ。浄水場んとこの八重桜をさ、観に行く予定だったのが友達の都合が悪くなったとか言ってた。多分お前を連れ出す策略だろうが。」
啓介は苦笑を浮かべながら一口コーヒーを飲む。
「わかってるなら幇助するなよ。」
妹思いの兄なんだよ、と言いながら光司はカップの中を一気に飲み干す。
「お前もたまにはちっと遠出しろ。朝から晩までこの町内にいてもドキドキワクワクは皆無だぞ。」
「客が一人来るだけで充分ドキドキしてるつもりだ。」
「店なら一日ぐらいおやっさんに任せろ。たまにはコーヒーでも入れさせないと足腰が弱る。」
啓介を無視して続けると、やっと声をたてて笑った。そういう時の啓介はいつもより少し幼く見える。それは年相応に見える、と同義だ。
「ひどいな。」
今ではほとんど啓介一人がこの古びた喫茶店を切り盛りしているけれど、オーナーは彼の母方の伯父さんだ。確かに歳はいっているが、まだまだ現役で、啓介が休む日には店に出ている。
「行く価値ありだぞ、屋台も出るし。ジャンクな食い物がわんさか。」
「親が聞いたら泣くな。」
啓介がはっきりと断らなかったので、光司は幾分ほっとして、強引に話をまとめにかかった。啓介が黙ってコーヒーのお代わりを入れてくれる。今年の桜を啓介と見る。それは当たり前だが今しかできない。当たり前すぎて誰も普段は意識すらしないこと。時間が音を立てて流れていく様。それを啓介は不条理な形でいつも光司に知らせてくれる。
だから光司は連れ出さずにはいられなかった。啓介は窓の方に視線を向けている。そこは相変わらず鏡と化していて、カウンターを挟んで親密そうに向かい合う男二人を映し出している。
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