村上春樹著「一人称単数」を読んで
村上春樹さん(以下敬称略)の新作短編集「一人称単数」を読んでみました。これは、どうやら文芸雑誌に掲載した短編を集めたもので、新たに書き下ろしたものではないようです。
あちこちで、昔の短編集「中国行きのスローボード」を思い出すという多くのレビューがありましたが、たぶんそこに懐かしい雰囲気を感じ取ったのだと思います。
載せられた短編の主人公は、すべて「僕」、なり「ぼく」という一人称で書かれてあります。それは村上春樹の十八番の書き方でもあります。
かつて、自著の中で、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が理想の作品であり、いつかそういったものを書けたらと思うとおっしゃっていました。
しかし、「カラマーゾフの兄弟」は三人称で出来上がっています。これは、「職業としての小説家」の中で、一人称は確かに物語る上で制約が大きい、幅と深さを書くには足りないと、おっしゃっていたとおり、そのことを痛切したんだと思います。
ここからは推測ですが、理想の作品を書くために、よりカラマーゾフの兄弟的な世界に近づけるために、一時期一人称を捨て、三人称の作品にチャレンジしはじめた(「アフターダーク」がその試みの最初かな)のだと思います。
しかし、それらの作品群は、正直言ってしっくりくるものではありませんでした。多くの村上春樹ファンは、春樹さんは変わってしまった。つまらなくなった。あの空気感が失われてしまったと残念に思った読者は多いことでしょう。
そして、その後も、完全な一人称ではありませんが、一人称を交互に繰り返す、「1Q84」や「海辺のカフカ」を作りましたが、どれも秀作(自分としては素晴らしい)ですが、、村上春樹が当初から好きだった読者からは少し、違和感をもたれ、これを契機に決定的に離れていきました。
野球で例えれば、ファンだったストレート一本勝負だった速球派のピッチャーが、多彩な変化球を投げる老獪な軟投派に転じたたのを見て、うまく蘇ったなあ、新鮮だなあと受け入れながらも、少しのさびしさを覚えるようなものと言っていいのかもしれません。
それらの作品には、「ぼく」という一人称で、どこまでも深く世界を深く描こうとした速球の魅力がなくなってしまった。それが最近の村上春樹の小説を読まなくなったファン達の本音だと思います。
しかし、今回の新作短編集は、一人称に完全に回帰しています。懐かしいとか、昔の感じといった感想はそこから来ているのだと思います。
一人称に戻ってしまったといって、「中国行きのスローボード」時代に戻り、その三人称の試みが無駄だったということかと言われれば、そうではない気がします。
失礼を承知で言わせてもらうと、より進化(深化)して戻ってきたのだと思っています。前よりも、切れと重さを得た速球を携えて。(これは、余談ですが、中学生のとき投手をやっていた中日の根尾選手が、野手から投手として戻ってきたように)。
これまで、村上春樹の「ぼく」は、自分の世界を守り、貫いて生きるが故に、世界と衝突するが、それでも「ぼく」を貫こうとしていく物語でした。その「ぼく」の世界観のゆるぎのなさと、その無謀な戦いに共感してきのです。
繰り返すことになりますが、三人称を導入することで、その世界が揺らぐことになってしまいました。なぜなら登場人物の数だけ「ぼく」がいて、それぞれが自分の世界が正しいと世界と戦い始めたら、物語の結果は当然ながら、収集がつかなくなり破綻してしまうので。
三人称で小説を作っていると人にはわかると思いますが、作者は当然ながら神の視点にならざるを得ません。
「ノルウェーの森」の中で、「ギリシャ悲劇」というのは、こうして三人称の世界で、はちゃめちゃになった結果、突然神様が出てきて解決させる物語といっているように、それは結末をうまくまとめるには、どうしても神という超越的な自分を登場させなければならないということです。
そうなると、登場人物たちを裁くのは神、つまり「ぼく」です。そうなると、どうしても登場人物の個としては存在が薄くなります。それは、その物語全体が「ぼく」となってしまうからです。
「ぼく」の世界は登場人物の数だけ細分化されてしまう。「ぼく」=「神」は、ぼく以上の世界を作ることはできないというジレンマに陥ってしまいます。
「カラマーゾフの兄弟」が文学作品の中で世界最高峰と呼ばれているのも、それを見事にまとめ上げて、一つの形としての救いまでもっていっているからかもしれません。
そして、この短編集で再び「ぼく」に戻ってきた春樹は、さまざまな一人称で書き始めました。
その中で一貫するテーマは、「存在」だと思います。
つまり、ぼくを含めて、そして他の登場人物は本当に存在しているのか。はっきり認識していたつもりだったが、それは自分の存在を含めて、幻だったのではないか。という「存在」に対する疑いだと思います。
おしゃれな服を着て、バーに行っただけでその存在すら間違われる話。
わかったつもりだった異性が、実は犯罪者だった話。
人の名前(つまりそれは実存そのもの)を奪ってしまう猿(作品内ではたいした罪ではないと言っているが、実は許されない重罪だと思う)。
そこには、われわれは本当に存在しているのか。そして他人をどこまで認識できているのか、できるのかという問題が提起されています。
「ぼく」を深めていくと、必然的に「ぼく」とは何かが当然の疑問となります。「ぼく」は、正確な「ぼく」をはたして認識できるのか。
その問いかけこそが、この短編集に新しい進化を感じ取るゆえんです。
そして、この問いかけと、その答えこそ、「カラマーゾフの兄弟」を超える長編への布石だと思われます(過去においても、短編は次なる長編の実験作という位置づけでしたので)。
そのまだ見ぬ長編には、「存在と時間」、哲学者のハイデッカーが問題提起した、『私(ぼく)は、本当に今この時に存在しているのか』という、未だ誰もだせていない回答を、物語として与えてくれるような予感がします。
と、いち短編集を読んだだけで、変に難しいことを考えすぎたかもしれませんが、次の(最後?)長編小説への期待を持たせてくれる意味で、とても楽しめる作品群だと思います。
一度、離れてしまった春樹ファンの人にも是非読んで欲しいです。
並んで紹介するのが恐縮ですが。
この記事が参加している募集
夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com