見出し画像

彼は、本当に「尾崎豊」を探したのだろうか?

(かつて、はてなブログに載せていた記事の再掲です。少し辛辣記事になっています、ごめんなさい)。
少し前になりますが、映画館で『尾崎豊を探して』という作品を観てきました。

この映画は、有名なドキュメンタリー作家が、尾崎豊さん(以下敬称略)について映画化するという話を知ってから、ずっと楽しみにしていた作品でした。

評価については、Yahooなりで映画レビューを見てもらえればいいですが、感想を一言で言ってしまえば「酷すぎる」でした。

それも、つまるつまらないのレベルではなく、生まれて初めて、愕然とした気持ちにさせられた映画でした。それぐらいショックを受けて、思わず続けてスターウォーズのを観に行ってしまったぐらいです。

今まで、どれだけひどいと思った映画でも、必ずエンドロールまで見るようにしていて、いいところを何とか探すことにしているのですが、この映画は途中で席を立ちたくなった唯一無二の映画でした。

その酷さの内容は、まさにさまざまな映画レビューに書かれた通りですが、一番腹が立ったのは尾崎豊という不出世の天才を、この映画監督はまったく理解していないことでした。

それどころか、その気持ちを一番大切としなくてはならならないのに、尾崎豊という存在に対する愛憎をまったく画面から感じなかったのです。

こういった特定の人物を対象にしたドキュメンタリー的な映画というのは、その人物に心底に惚れ込むか、逆に心底憎らしく思うかどちらかでしょう。

尾崎豊のファンについて、死んだ当時も今も、尾崎信者とか尾崎狂と言われて馬鹿にされたり時には揶揄されたりと、色々な言われ方をされてきました。しかし、誰に何と言われようも、私は尾崎豊のファンです。

あまり、ファンの好き自慢は好きではありませんが、亡くなった当時、東京で会社員をしていた私は、ふいに尾崎豊の訃報を知って、あまりにも衝撃を受けすぎて、めまいをして立ちくらみを起こしたほどでした。

その日は仕事を勝手に早く切り上げて、気が付けば尾崎豊が住んでいた北千住に向かっていたのです。
駅前にはすでに、訃報を聞きつけたファンでごった返し、整理に当たっていた警官も、この混雑の意味がわからず殺気立っていて、ウイスキーの小瓶と小さな花束をもった私を、まるで過激派を見るような目で、マンションへの道も教えてくれるどころか、職質されて無下に追い返されてしまいました。

そのまましばらく呆然とした日を送り、追悼式の日は会社をサボって会場の護国寺に行き、寒い雨の中、長蛇の列に並び、雨の中でひたすらトイレを我慢しながら順番を待つ自分がいました。(これで完全に風邪を引き、三日ほど仕事を休むことになり、会社に居づらくなって辞めることになるという顛末については、また別の話になります)。

ファン自慢はここまでにして、当時、角川書店の野生時代という雑誌をよく読んでいたのですが、その中に、尾崎豊と若き小説家の対談が定期的にありました。それを読むたびに、少しでも早く小説家になって、小説家として尾崎豊と対談したいと思っていました。

そのために、芥川賞を狙っていたぐらいです(バカみたいですが)。そう尾崎の死は、まるで目標を失ったアスリートのように心の底からがっかりさせられたのです。

そして、再び映画の話に戻りますが、尾崎豊はご存じのとおり、本当に若者の教祖でした。ルックス良し、歌詞良し、メロディー良し、メッセージ良し。

自分にとっての完全体のロッカーでした。この映画の中では、そのことがあまりにも前面に押し出されてすぎていて、演出というよりもあざとさを感じたぐらいですが。

これら全ては、尾崎豊の魅力ではありますが、あくまでその一部に過ぎません。それだけでしたら、シド・ヴィシャス、甲本ヒロトなど、古今東西、もっとたくさんいたでしょう。もし、尾崎豊が十代で3枚のオリジナルアルバムを発表して、ニューヨークに行く前に亡くなっていたら、彼はきっと、普通の人気ロッカーで終わっていたかもしれません(それだけでも充分すごいですが)。

この映画の冒頭のシーンは、中高生の街頭インタビューで始まっているのですが、「尾崎豊を知ってますか?」という問いに、ほとんどの若者は『アイ・ラブユー』を歌った人と答えていました。たぶん、昔流行ったポップスターの一人ぐらいの認知度なのでしょう。

尾崎豊の本当の凄さというのは、音楽活動を無期限停止してニューヨークに行き、ドラッグで捕まった後のことです。特に、歌詞のメッセージ性、思索の格段の深化は目を見張るものです。しかし、残念なことに、この本当にすごい真価がこの映画ではまったく描かれないのです。

尾崎(さらに敬称略)は、ドラッグで裁判を受けて、長い謹慎の後、いきなりこれまで出なかった音楽番組で復帰することになります。それは、水曜日の夜にやっていた「夜のヒットスタジオ」という歌番組でした。

そこで、柵越しの牢獄の窓から見えた太陽をモチーフにした『太陽の破片』という歌を唄ったのですが(今でもYouTubeにアップされていますので、是非ご覧下さい)その歌詞のインパクト、抜群の歌唱力でもって、チェッカーズを始め周りの出演者全員を圧倒して、中森明菜さん(おそらく似たような感受性を持っていると思います)を皮切りに全員をスタンディングオベーションさせてしまいます。

その演奏は、まさに、神がかった素晴らしいもので、まさに熱唱でした。そして、その歌詞は深い挫折を経験しなければ、とても書けないまさにピアノの指先のような秀麗な内容でした。

こうして復帰した尾崎は、外国人のバックバンドを招いて二枚組のCD『誕生』をリリースします。その中の曲、「永遠の胸」の中で彼はファンに向けてこう言います。
「涙溢れて何も見えなくても、僕はいつでもここにいるから」。そうです、これなんです。これが彼の真骨頂であり、彼の歌手としての到達点でありアーティストとしての思想的到達点だったのです。今聴いても、泣けてきます。

少し前までの、反抗と反逆のメッセンジャーから、ある意味釈迦に似た境地(言い過ぎかもしれませんが)を差し出した時、ある意味において真の教祖になったのです。

それからしばらくして、尾崎は当時、ある有名女優と恋愛沙汰を起こした後(彼女が尾崎のことを「同志」と言っていたことを思い出します。すばらしい理解の仕方であり、関係です)、「放熱の証し」というアルバムを出し、自分に利用としようと群がってきた者達との、汚れた絆を振り返り、曲の中で愛していた母親を弔い、そしてその中で、「誰も知らないぼくがいる」と哀しげに歌い上げます。

そして、その最後のアルバムを出した後、真っ白な孤独の中で、まるで自殺するように死んでいきます。死んでもなお、いろんな人にたくさんの思いを残したという部分こそが、映画の中で描かれるべき一番大事な部分だったと思っています。「ロックンローラー」から思想家への変遷へと。

かつて尾崎がインタービューの中で、晩年歌えなくなったら、「空手を子供たちに教えながら、小説でも書けたらいいな」と言っていたように、彼は「普通の愛」というデビュー作(出来は正直いまいちでした)を書き、これから先、小説を書いていこうと思っていたはずです。私も、尾崎という人があのまま生き続けていたら、いつか本物の小説家になれた気がします。

彼自身の生き方自体が一まるで一つの伝説のようなものでしたが、自らの感じ、経験した思いを物語に昇華しようと考えていました。

この映画は、尾崎豊を探してというタイトルからしても、苦悩の果てに、天才ロッカーが、挫折と思索を重ねて経て小説家になったという切り口も充分ありえたと思います。それこそが、本当の「尾崎豊を探し方」だと思います。

尾崎は、あるライブの中で「十七歳の地図」という曲を歌う前に、こう叫んでいました。「今日来ているお前らの中に、本物の愛や真実を見つけようと歩いていく連中がいるならば、俺はそいつらのために命を張る」 そして、本当に尾崎は命を張って死んでいきました。

そして、この尾崎の壮絶な言葉に鼓舞されて、今でもあてどもない小説を書きながら、本物の真実を探している最中です。ちなみに尾崎の一番好きな歌は、「誰かのクラクション」です。1万回は聴いたかなあ。

ではまた


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com