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【静岡県の皇室伝承】6.後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が開いた「大本山方広寺(奥山半僧坊大権現)」(浜松市)

大本山方広寺

 JR浜松駅から遠州鉄道のバスに揺られることおよそ一時間半。奥山の地に臨済宗方広寺派の大本山たる深奥山じんのうざん方広寺がある。

 吉野朝時代の建徳二(一三七一)年、この地域を治めていた豪族・井伊家の一族である奥山六郎次郎朝藤ともふじの招きを受けた高僧・無文元選むもんげんせん禅師がお開きになった寺院だ。

 無文元選禅師がこの寺を方広寺とご命名になったのは、仏門修行のために貞和元(一三四五)年、元朝へと渡られた際にお訪ねになった天台山方広寺の風景に、奥山氏より寄進された当地の景観が似ていたことからだという。

 この無文元選禅師なる高僧についてだが、伝説によれば人皇第九十六代・後醍醐天皇の皇子であらせられるという。

 江戸時代後期の史書『南山巡狩録』に曰く、満良親王。母中納言宗親卿女親子。元亨三年誕生し給ひのち花園宮と称し一方の大将となり土佐国にいたり、そのゝち釈門に入て無文元選禅師とあらため給ひ元朝にもわたり給へり。帰朝のゝち諸国を経歴し、元中七年――北朝の明徳元年――閏三月廿二日遠江国に於て入寂し給ふ。御年六十八」

 また、巨鼈きょべつ福厳ふくごん寺(兵庫県神戸市兵庫区門口町)の住職を務めた滝宜睦による『福厳寺記並蒼官余韵拾遺』(大正九年)には、次のようにある。

「後醍醐帝の皇子なり。母懐妊の時、宮を出で、元亨三年梅津の私第に師を産み、これを第五橋辺に棄つ。一土人あり嗣子なきを患ひ。常に清水の観音に祈り。師を見て欣び拾ひ得て撫育す」

 こちらによれば、禅師は恒良親王だという。御年わずか七にして育ての親を失った悲しみから、ついには仏門に入ることをご決意になり、父帝の崩御の翌年、御年十八にして建仁寺において落飾なさったそうだ。

本堂の前にある看板。「開山禅師が親王さま(幼名満良親王)だけに、境内の堂宇、仏具のすべては六百年来、十六の菊のご紋に映え、光格天皇から"大慈普応禅師"、明治天皇から"聖鑑国師"、昭和天皇から"円明大師"とそれぞれ勅諡され、また孝明天皇から住持職出世、紫衣寺格の称も恩賜されている」「当山の管長が"金糸菊花御紋章入り"の袈裟を着用するのは、開山さま(皇子禅師)の後継者たる格式による」

 そんな方広寺の境内には、無文元選禅師のご遺跡も多い。その最たるものが、昭和十(一九三五)年に建立された勅使門の向こう側にある御墓所の「黙霊塔」だ。

 無文元選禅師が本当に後醍醐天皇の皇子であらせられるのかは不明だが、明治九(一八七六)年二月には宮内省により陵墓地としての治定を受けている。その扱いは今なお変わっておらず、静岡県内では二か所しかない宮内庁の管理地になっている。

 なお、残る一か所というのは禅師の兄宮・宗良親王のものであり、同じ旧引佐町内にある。この兄宮が薨ぜられた際には、禅師が弟宮としてその葬送の儀を営まれたと伝わっている(※こちらをご参照あれ)。

 宮内省諸陵寮『陵墓一覧』(明治三十年)では「無文禅師」と、『陵墓一覧』(明治三十四年)では「聖鑑国師」という仏教の高僧としてのお名で記載されていた。『陵墓要覧』(昭和九年)以降は、皇族らしく「元選王墓」という記載になっている。

勅使門前の看板。「宮内庁の記録に"無文元選王廟"と記されています。光格天皇から"大慈普応禅師"、明治天皇から"聖鑑国師"、昭和天皇から"円明大師"とそれぞれ勅諡されています」

 勅使門は、その名の通りもちろん皇室関係者しか通行できない。開山御廟へと繋がる道は他にも存在するものの、残念ながらそちらも寺院関係者以外の立ち入りは禁止されている。

「後醍醐帝皇子 開山御廟所道」と刻まれた碑。

 したがって文献のみに頼らざるをえないが、外池昇「遠江方広寺の後醍醐天皇陵」(『調布日本文化』第十巻、二〇〇〇年三月)によると、元選王墓の裏手にはさらに「後醍醐帝尊儀」と刻まれた石塔があるという。

 数十年前は御墓所の近くまで行くことができたのであろうか。次のような紀行文がある。

土塀にめぐらされた中が廟であるが、閉ざされた中の様子は不明である。慰霊塔ともいわれて二間四方の堂内に高さ六尺一寸三分、台座四尺四分の石塔が安置されているともいう。この廟所の裏に別な土塀がめぐらされてあった。後醍醐帝尊儀と刻まれた碑がある。天皇の遺髪を納めたものだと伝えられている。

松本勝二『旅史有感』(カツジ社、一九八四年)四二頁。

奥山半僧坊大権現

 一般的に方広寺といわれれば、豊臣秀吉が作らせた「京の大仏」を擁した寺院――鐘に刻まれた「国家安康君臣豊楽」の字が大坂の陣の契機になったことで知られる――のほうをまず思い浮かべるだろう。

 そんな事情も手伝ってか、方広寺の鎮守社たる「奥山半僧坊大権現」は、同寺の別称として広く通用している。

椎河龍王

 静岡県引佐郡教育会『静岡県引佐郡誌 下巻』(大正十一年)に「椎河龍王宮の下に喬杉あり。磐根錯々たる所偃龍の俤あり、里人之を大蛇杉といふ。又此龍神は当山の水を守護するの神徳ありと伝ふ」とある。

虎月岩

大本山方広寺と高松宮家

 方広寺は開山が皇族であらせられることからもちろん皇室とのゆかりが深いが、その中でも特に密接だったのが高松宮家だ。

 総門から少し進んだ先にある朱塗りの山門正面の「護国」という扁額は、昭和天皇の次弟・高松宮宣仁親王のお筆によるものである。

 これは「浜松の鉄工王」として知られた地元の名士、西川熊三郎がお願いしたものだという。

山門に掲げられた『護国』の掛額は高松宮様の御揮毫になるものであるが、方広寺の開山様が皇族である所から、老師の代理として西川が参殿して御願をした高貴の直筆である。

西川熊三郎『阿呆六十余年の足跡』(西川熊彦、昭和三十一年)四二〇頁。
「昭和甲午」と見えるので、昭和二十九(一九五四)年に書かれたものだ。

 高松宮宣仁親王は昭和六十(一九八五)年四月二十一日の開山忌宿忌(前夜祭)に際せられて、喜久子妃とともに初めて方広寺をご参拝になった。親王におかせられては、この時、金糸菊花御紋章入りの七条袈裟と大掛絡おおがらを管長にご下賜になったという(荒金天倫『現代を生きる』より)。

 高松宮ご夫妻はこの時、本堂の近くに槙をお手植えになった。その槙は約四十年が経過した今でも「高松宮殿下御手植槙」と刻まれた碑とともに境内にある。

 高松宮宣仁親王は、方広寺の諸堂改築に向けて「方広寺奉賛会」が結成された際には、その名誉総裁にならせられ、会に金一封を下賜されたという。

 さて、「高松宮殿下御手植槙」碑のその後についてであるが、裏側に「高松宮様の薨去を悼む喜久子妃殿下の御歌」が追加で刻まれている。

 癌という病をいやすすべなきか――夫・宣仁親王と母・徳川實枝子を癌という形で失い給うた喜久子妃の悲痛なお気持ちがよく表れたお歌である。

「高松宮様の薨去を悼む喜久子妃殿下の御歌」とある。

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