アメリカ・ビーバー島にあったモルモン教会の「王国」
File:Mormon Print shop.JPG©Jhflanagan(CC BY-SA 3.0)を改変して作成
はじめに
ご存じだろうか、19世紀のアメリカにおいて王を称した男がいることを。――こう聞くと、おそら大部分がサンフランシスコを拠点に「合衆国皇帝ノートン1世」を称したジョシュア・ノートンを思い浮かべることだろう。しかし、彼ではない。そもそも、彼が称した君主号は「皇帝」であって「王」ではない。
「ノートン1世」に関しては、検索すれば山のような情報が出てくる変人界隈の超メジャーな人物なので、今更ここで改めて紹介せずともよいだろう。今回取り上げる男の名は、ジェームズ・ストラング(James Strang)である。
モルモン教会への入信、独立
ジェームズ・ストラングは、1844年2月にモルモン教会に入信した。なおモルモン教会とは、1830年に立ち上げられたキリスト教系の新宗教である。詳しくは教会公式ウェブサイトなどを参照されたし。
入信して間もない6月、収監されていた教会創設者のジョセフ・スミス・ジュニアが、武装した市民たちに襲撃されて死去するという事件が起きた。
事件後、ストラングはジョセフ・スミス・ジュニアの後継者として名乗りを挙げたが、後継者レースに敗れ、教会を追われた。
ストラングはモルモン教会に入信したばかりだったが、それなりに大勢の支持者がいた。だから彼は、支持者を引き連れて分離独立することにした。
ビーバー島の「王国」
ストラングは紆余曲折を経て、ミシガン湖に浮かぶビーバー島に教会本部を構えることにした。モルモン教会分派は、現代まで残る多くの道路を建設するなど、ビーバー島の近代化に貢献したという。
しかし、ビーバー島に元々住んでいた非信徒のほとんどは、1850年代初頭までに島を去った。怪しげな新興宗教の信者がいきなり大挙して近所に移住してきた彼らの立場になって考えると、それも当然のことだろう。とはいえ島に残ることにした非信徒も少数ながらおり、時に暴力を伴う深刻な対立が生じたという。
1850年7月8日、ストラングは約250人の信者の前で、紙製のごく控えめな王冠を戴き、「王」になった。誤解のないように言うと、彼はビーバー島を独立国家にしようとしたわけではけっしてない。聖書の中に記されている「神の王国」を、ビーバー島から創めようとしたのだ。
新宗教であるがゆえにモルモン教会自体が元々かなり奇異の目で見られていたが、「戴冠」後、ストラングは世間一般からますます奇異の目で見られるようになった。時の大統領ミラード・フィルモアも、彼について調査するよう命じたほどである。
一度は危険人物として起訴されたが、裁判の結果、ストラングは雄弁な演説家として知られるようになった。やがて彼は、民主党からミシガン州下院選挙に立候補して、見事当選を果たした。「禍を転じて福と為す」の典型例といえようか。
議会政治家としてそれなりの有能さを見せたようだが、私生活では物議をかもすこともあった。一夫多妻制を敷き、最終的には五人の女性を妻とし、コミュニティに論争を巻き起こした。
1856年6月16日、ストラングは襲撃されて重傷を負い、その怪我がもとで7月9日に死去した。
ストラングの死後、信者たちは次々とビーバー島を離れていった。島に残ることにした信者も、数週間後に暴徒化した非信徒たちに襲撃されて、着の身着のままでボートに押し込まれたという。
かくして、ビーバー島にあった「神の王国」は、ストラングの死とともに姿を消した。
「王国」は地図上から完全に消滅したものの、ストラング派モルモン教会の信徒は、今日でも世界全体で数十人から数百人ほど残存しているという。しかし、いまやビーバー島には一人の信者もいない。
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