幻の天台宗宗制改革:東伏見宮家の祭祀継承者「東伏見伯爵家」による世襲制の「天台座主」
皇胤「東伏見家」のもとで門跡の伝統を受け継ぐ「青蓮院」
京都市の粟田口に所在する青蓮院(天台宗)は、平安時代後期から数百年の長きにわたり皇族や摂関家が住職(門主)を務めてきた「門跡」の格式をもつ古刹である。皇室の縁者が門主を務める形は、他の門跡寺院と同様に、明治維新の頃からしばらくの間は途絶えていたものの、令和の御代となった今日まで受け継がれている。
昭和二十八(一九五三)年、元皇族の東伏見慈洽氏――皇族時代は久邇宮家の「邦英王」。昭和六(一九三一)年に臣籍降下され、跡継ぎがおられなかった東伏見宮家の祭祀継承者として「東伏見」の家名を賜って伯爵になられた――が門主に就任された。
青蓮院門跡はこれ以来、旧宮家に次ぐ名門の一つにも数えられる東伏見家(旧東伏見伯爵家)が門主を世襲する事実上唯一の現役の門跡寺院となっている。
そんな青蓮院門跡の東伏見家についてだが、まだ華族として伯爵位を保持していた太平洋戦争の最中に、後に世襲が認められることになる青蓮院門主のみならず、天台宗における信仰の象徴的存在「天台座主」をも世襲するという計画が立てられ、実現しそうなところにまでいったらしい。
仏教美術に強く惹かれた皇族「邦英王」
東伏見家による「天台座主」世襲計画について述べる前に、まずは東伏見慈洽氏の生い立ちについて軽く触れておきたい。
父宮にあたらせられる久邇宮邦彦王は、大正十年から「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」(のちに財団法人「聖徳太子奉讃会」に発展)の総裁を務められた。この宮におかせられては、聖徳太子へのご尊崇の念すこぶる篤く、
「聖徳太子の事であれば何でもやるよ」
といつもお口にしていらっしゃったほどだという。
大正十一(一九二二)年の秋、兵庫県姫路付近での師団対抗演習をご視察になった際には、翌日の演習日程に一時間ほど余裕があると聞こし召すや、
「然らば斑鳩の斑鳩寺に詣るべし」
と仰せられ、実際に田舎道をお厭いなくお成りになったという。この宮はある時、
「私は、一にも太子、二にも太子であります」
とまで仰せになったと伝えられているが、まさにそのお言葉の通りであらせられたわけである。
そんな父宮のお姿から影響をお受けになったのであろうか、あるいは父宮のお人柄がそのまま遺伝したのであろうか。邦英王におかせられては、仏教美術に深く関心を抱くようにならせられた。
邦英王には昭和五(一九三〇)年五月四日、滋賀県大津市の園城寺――「三井寺」の別称で知られる――での結縁灌頂にて入壇あらせられた。すでに述べたように、臣籍降下は翌昭和六年のことだから、正真正銘の金枝玉葉の御身として仏縁をお結びになったわけだ。
邦英王の仏教美術へのご関心がどれほどのものだったか、具体例を挙げよう。戦前の百円紙幣は、裏面に法隆寺西院伽藍の俯瞰図が描かれていたが、 一部のデザインに誤りがあった。実際には柱間が二つである五重塔の最上段が、間違って三間になってしまっていたのである。
直木孝次郎『法隆寺の里:わたしの斑鳩巡礼』(旺文社、一九八四年)によると、この間違いを発見したのは大学生時代の邦英王であらせられたという話があるそうだ(※当時すでに臣籍降下されて東伏見伯爵)。
明治維新後、神仏分離により宮中から仏教色が一掃されたが、それでも皇族・元皇族の柩に「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と書いた紙を入れる慣習があるなど、近年まで皇室には仏教が息づいていた(現在もそうかもしれない)。そんな中でも特に仏教方面への関心がお深かった邦英王は、明治以後の皇族・元皇族の男子としては異色の存在であらせられたと評してよいだろう。
臣籍降下して「東伏見伯爵」に
邦英王は昭和六(一九三一)年四月四日に臣籍降下されて東伏見邦英伯爵となられた。この当時、宮家から新たに華族を創立する場合、初めのお一方のみ侯爵で、二人目以降は伯爵とする慣習があった。久邇宮家からはすでに久邇侯爵家ができていたので、その弟の邦英王が伯爵とされたのはごく自然な流れであった。
しかし、邦英王改め東伏見邦英伯爵は、自身の爵位について何やら不満を抱いておられたらしい。『木戸幸一日記』昭和八年十一月十六日条にこんな記述がある。
爵位についてどのような不満がおありだったのかについては、臣籍降下の先例を見れば推察できる。
すでに廃絶していた小松宮家の祭祀継承者として、明治四十三(一九一〇)年に小松侯爵家を創立された北白川宮家の輝久王。そして、華頂宮家の祭祀を受け継がれる形で大正十五(一九二六)年に華頂侯爵家を創立された伏見宮家の博信王。伯の脳裏には、これらの二つの例がおありだったのではないだろうか。
要するに、自分はただ単に華族に列するのではなく東伏見宮家の祭祀継承予定者なのだから、小松侯爵家や華頂侯爵家と同格の「東伏見侯爵」であって然るべきだ――とお考えになったのだと思われる。
世襲制の「天台座主」に推戴された東伏見邦英伯爵
さて、ここからが記事の本題である。過日、筆者は昭和十八(一九四三)年の出来事が記された『時事年鑑 昭和十九年版』に「四月四日天台宗比叡山延暦寺では東伏見邦英伯爵を天台座主に推戴を発表」という記述があるのを発見した。
『時事年鑑』には書かれていないが、同年の『毎日年鑑』によれば、これは比叡山延暦寺の歴史上例がない世襲制への移行を伴うものだったという。
太平洋戦争の最中だった当時の日本では、多くの宗教団体が積極的に戦争遂行に協力していた。したがって、天台宗のこの宗制改革も、おそらく戦時体制の構築の一環であろう。天台宗では昭和十六(一九四一)年に山門派、寺門派、真盛派の三派が合同していたので、そのトップにはしがらみのない存在として元皇族の東伏見伯がふさわしいと判断されたのではないだろうか――と筆者は当初推測したのだが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
きな臭さが漂う「天台宗宗制改革」
昭和天皇の二番目の弟宮・高松宮宣仁親王が、御日記『高松宮日記』の中で、天台宗宗制改革について触れていらっしゃった。これによれば、東伏見伯爵を天台座主にという動きは、なかなかきな臭いものであったようだ。
昭和十九(一九四四)年一月十五日の記述によると、東伏見伯爵は、彼が天台座主に就任すれば甘い汁が吸えるだろうと期待する星島――東伏見伯爵家の家令、星島和雄氏か――、飯田という者たちに唆されて天台座主の座に興味を示されたようだ。
なお、あくまで高松宮のご見解ではだが、東伏見伯爵としては天台座主になれば歴史研究をするのに好都合だとか、そのくらいのお考えであられたという(『高松宮日記』昭和十八年五月八日条)。
そして、この動きに天台宗の側も乗っかった。
延暦寺は世襲制の管長を置くこと自体に何らかのメリットを見出したようだ。青蓮院門跡では、天台座主を兼ねる門主を持つことで寺院収入が増えるだろうという期待から賛成したという。俗な理由ではあるものの、当事者になった時にそのようなことを考えるのは理解できなくはない。
高松宮の見解によれば、「上野」すなわち寛永寺に関しては、東伏見伯爵家がいずれ東京に移住されれば当寺に入られるであろうと期待して賛成したということだが、もしもこれが事実だとすれば「捕らぬ狸の皮算用」めいており、理由としてはなんとも残念さが漂う。
ところで、東伏見家については、仏法に帰依された以上はもはや東伏見宮家の祭祀――明治以降の皇族なのでもちろん神道による――の継承者だとはいえないのではないか、という声がある。
しかし『高松宮日記』を読む限りでは、仏門への帰依それ自体が祭祀継承者として問題だという風には、東伏見宮依仁親王妃周子を筆頭に誰も考えておられなかったようだから、東伏見家は今もなお東伏見宮家の祭祀を継いでおられると考えるべきではないだろうか。
天台宗宗制改革、失敗に終わる
『高松宮日記』昭和十九年三月三日の記述によると、きちんと得度しない者を管長として認めぬという文部省の上部から同省宗教課へのお達しにより、この計画は立ち消えとなった。東伏見伯爵も天台座主の座をお諦めになったという。
なお後半の記述によると、この東伏見伯擁立運動の黒幕であるという星島は、東伏見伯が皇族のお生まれであられることを何かにつけて振りかざし、物資不足の戦時中にあって、皇族以上の量の物資を集めていたらしい。
かかる小悪党に元皇族や天台宗の諸大寺院が乗ったことで起きたのがこの騒動だった、という理解でよいのだろうか。史料的な制約もあって裏付けが十分に取れていないので、引き続き調査を続けていきたい。
すでに述べたように東伏見慈洽氏は昭和二十八年に青蓮院門主になられたが、その座を東伏見家が世襲することについては、天台宗との間でひと悶着があったといわれる。
これが事実かどうかは定かではないが、どんな事情があるにしても天台宗は管長、天台座主、青蓮院門跡の三職を東伏見家が代々世襲することを一度は認めたのだから、そのうちの一つくらいは認めてくれてもよいだろう――という思いが東伏見慈洽氏の胸中にあったとしても、それは至極当然のことではあろう。
現門主・東伏見慈晃、天台座主への登竜門「戸津説法師」に
時は流れて令和六(二〇二四)年六月四日、延暦寺は天台座主への登竜門とされる「戸津説法」の説法師に現青蓮院門主・東伏見慈晃氏が指名されたと発表した。比叡山延暦寺には皇族の方々が天台座主をお務めになった長い歴史があるので、その例からいずれ天台座主になられるのではないかと期待する声もある。
だが、戸津説法師を務められたとしても、そこから天台座主への道のりはまだまだ長いということは強調しておきたい。なにしろ、十年単位の長い時間をかけて「擬講」「已講」「探題」の法階を得て、そのうえで同じ法階を有する他の誰よりも長生きしなければならないのだから。
参考までにいうと、令和三(二〇二一)年に天台座主に就かれた大樹孝啓氏が戸津説法師を務められたのは平成十一(一九九九)年のことだ。天台宗の頂点に上り詰めるまでには、実に二十年以上もの歳月を要したのである。
そう考えると、東伏見慈晃門主はすでに八十代であられるから、天台座主への就任はかなり厳しいかもしれない。もともと銀行にお勤めになっていて、仏門修行を始められたのは五十歳になられてからという経歴が響いてくるのだ。
「私は銀行に勤めていたのですが、銀行の勤めの中で、仏教はほとんど関わりがありませんでした」(環境省・京都御苑管理事務所インタビュー「京都御苑ずきの御近所さん」第17回、2017年3月6日)
いずれにせよ、名刹である青蓮院門跡を世襲するという点は、一般の僧侶よりもかなり有利に働くはずだから、東伏見家が世襲する形はもはや望み薄だとしても、東伏見家のご出身の一代限りの天台座主ならば、いつの日にかきっと拝むことができるであろう。