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【愛知県の皇室伝承】11.景行天皇の皇子「大我門別命」の御墓? 「行明神社」の古塚(豊川市)

1.「大我門別命おおがとのわけのみこと」の御墓か? 行明神社の古塚

 日本三大稲荷の一つとして挙げられる豊川稲荷で知られる愛知県豊川市。その南部の、豊橋市との境界に位置する行明町ぎょうめいちょうに、行明神社というお社が鎮座している。

 明治時代中期に刊行された『三河国宝飯郡ほいぐん誌』によれば、江戸時代初期の慶長七(一六〇二)年に津島牛頭天王を勧請したことに始まり、明治五(一八七二)年に素戔嗚神社へと改めたそうだ。現在の社名に改めたのは大正時代のことだという。

 さて、その『三河国宝飯郡誌』には次のように書かれている。「境内ニ古塚アリ大ツカ 天皇ト云リ由緒詳ナラス後考ヲ俟ツ」。

 境内には古い塚があり、それは「大束」とも「天皇」とも言われている。由緒は不詳。後世の考証を期待したい――。

 その「古塚」というのは、社殿の裏手の木々の中にある。事前情報がなければ気づかないくらい小さな塚で、この付近にあると知っていてもなお、遠目に見ただけでは「あれは境内の落ち葉を一ヶ所に集めてあるゴミ捨て場だろう」と思ってしまったほどだ。

 付近には説明看板の類は何も存在しないから、地元住民ですらこの塚の存在を知らない人がいると思われる。その程度の扱いを受けているごく小さな塚なのだが、どうやら皇室伝承の地――今なお伝えられているかは不明だが少なくとも昔は言い伝えがあった――であるらしい。

田中長嶺たなかながねの『参河名所』が伝える古事

 世界初のシイタケの人工栽培を成功させるなどして、殖産興業の発展に貢献した明治時代の偉人・田中長嶺たなかながね。「天は二物を与えず」というけれども、彼は幼い頃から画才もあり、若い頃には絵師になることを夢見て江戸へ修行に出たこともあったそうだ。

 そんな彼が大正十一(一九二二)年に出版した絵図集『参河名所』。その名が示す通り、愛知県の東部地域・三河国のさまざまな名所を紹介する内容であるが、その中に「大束」とも「天皇」とも言われる古塚が「天王塚又大塚」として取り上げられており、興味深いことが書かれている。なんと古代の皇族の御墓かもしれないというのだ!

『参河名所』(近藤出版部)より「天王塚又大塚」
あまりにも過大描写な気がするが、そこは御愛嬌である。

宝飯郡牛久保町大字行明牛頭天王社境内にあり。
御塚は僅に社殿を隔てて五間、円形にして髙さ七、八尺、附近小竹生茂れり。古老の話によれば、上古景行天皇の皇子大我門の命を(ほうむり)奉る所なりと。又南方五、六丁の所に清水あり。宮井戸と称す。大宝二年、持統上皇行幸の時、此井の水を汲ミて奉りしといふ。

 古老が言うには、「天王塚」とも「大塚」とも呼ばれるそれは、第十二代人皇・景行天皇の皇子であらせられる「大我門の命」が葬られ給うた塚であるらしい。間違いなく大我門別命おおがとのわけのみことのことだろう。

 件の古塚の伝説について書かれた史料は、管見の限りでは『参河名所』が唯一のものである。

『氏神さまとまつり――愛知県神社庁豊川支部旧豊川市の五十九社:第六十二回神宮式年遷宮記念事業――』によると、行明神社は明治三十八(一九〇五)年四月十八日、火災に遭って社殿や古文書を焼失してしまったという。『三河国宝飯郡誌』には由緒不詳とあるが、もしかしたら焼失してしまった古文書のどこかには由緒が書いてあったのかもしれない。そう思うとまことに残念である。

2.持統上皇ゆかりの水源「宮井戸」

 前掲『参河名所』の「天王塚又大塚」には、古塚のみならず皇室ゆかりの清水についての情報も書いてある。

南方五、六丁の所に清水あり。宮井戸と称す。大宝二年、持統上皇行幸の時、此井の水を汲ミて奉りしといふ」。およそ五、六百メートルほど南方に「宮井戸」という池があって、大宝二(七〇二)年に三河国御幸をなさった持統上皇にその水を献上したというのだ。

『御歴代百廿一天皇御尊影』(三英舎、一八九四年)より。

 前掲『三河国宝飯郡誌』にも、「宮井戸」でこそないが「星野池」という古跡についての記述がある。どの天皇とは書いていないが、天皇のための御髪水として毎朝その水を献上したという。

行明字高畑ニアリ現今ハ僅ニ形跡ヲ有スル而己(のみ)。三河名所図絵ニ云、前畧可敬ヲモフニ『統叢考』ニ云フ星野ノ池水 帝ノ御髪水ニ朝ナ朝ナ献セシ事諸記ニ見ユ何レ 帝トイフ事ヲ記サズ。按スルニ 持統帝当国宮路山引馬野 行幸ノ時名水ナリケレバ其行在所ヘ献セシヲイフナラン。彼行在所ハ程近ケレバサモ有可シト見ユ。是等ヲ以テ考フルニ由緒ナキニハアラス。

『三河国宝飯郡誌』

 また、愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)には、行明神社の境内のあたりに「宮井戸」と呼ばれる池が現存すると書かれている。

74 宮井戸(宝飯郡)
牛久保うしくぼ町大字行明ぎょうめいの行明神社の境内のあたりを宮井戸といふ。これは大宝二年持統天皇の星野の里へ御幸あらせられた時清水を汲んで献じたところで、現在もこゝに宮井戸と呼ぶ池がある。

愛知県教育会『愛知県伝説集』(郷土研究社、昭和十二年)一九八頁。

 宮井戸という地名は行明神社の南方にあるが、池そのものは存在しない。どうやら昭和初期までは確かにあったらしいのだが、今では埋め立てられてしまったようだ。

地名としての宮井戸(豊川市)

 行明神社から二〇〇メートルほど東南東に離れている場所――そこはもう市の境界線を越えて隣の市域である――豊橋市長瀬町上ノ畑に「よし池遊園(長瀬公園)」という小さな公園がある。

よし池遊園(豊橋市長瀬町上ノ畑)

 そしてそこには「南には、宮井戸と言う池があり村の守りでした」と過去形で説明している看板があるのだ。実際、現代の周辺地図を確かめてみても、ここより南にそれらしい池は認められない。

公園にある看板。「よし池遊園付近の由来 この遊園地の昔は、葦におおわれた池でした。長瀬の北に位置するこの池は、防火用水を目的に昭和八年頃、村人の手によって掘られました。南には、宮井戸と言う池があり村の守りでした。……平成十七年十一月吉日」

 看板には、宮井戸の湧水が天皇に献上されたという情報はどこにもない。この看板はおそらく現地で宮井戸についての情報を知ることができる唯一のものだろう。しかし、辛うじて宮井戸が池として存在したということを知れたとしても、もはや文献以外でその詳しい由緒を知ることはできないのだ。

【参考文献】
・早川直八郎、早川彦右衛門『三河国宝飯郡誌』(明治二十四~二十六年)
・田中長嶺『参河名所』(近藤出版部、一九二二年)
・『氏神さまとまつり――愛知県神社庁豊川支部旧豊川市の五十九社:第六十二回神宮式年遷宮記念事業――』(愛知県神社庁豊川支部、二〇一五年)

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