大切な人を亡くして、お盆の日に思うこと。
お盆ですね。
皆さん、ご先祖様にお参りしたり、親戚同士で集まって、久々の再会を楽しまれていたりすることと思います。
仏壇に向かって祈る時。
皆さんは何を考えますか?
ボーっとお坊様の唱えるお経を右から左に聞き流されている方もいるかもしれません。笑
お経って、現代の私達には少し難しいので、もう少し分かりやすい形でお祈りの言葉もあったらいいのになー、と思う時もあります。
ご先祖様も、簡単な言葉の方が聴き取りやすいのでは?と思ったりもするこの頃です。
さて、前置きはこのぐらいにして。
皆さんは、大切な人を失ったこと、ありますか?
私には、大切な大切な人を亡くした経験があります。
その日は突然やって来ます。
そして、今までのその人との日々は、二度と帰ってくることはありません。
ある日、突然に。
心にポッカリと穴が空いたような、とてつもない喪失感に襲われることがあります。
しばらくはこれが夢か現実か分からないし、願わくは悪い夢であってほしい、と思う事もあります。
食べ物も喉も通らず、寝ても寝た気がせず、なぜ自分だけが今普通に生きているのか、分からなくなる時もあります。
そして不思議な事に、一日、また一日と時は経っていき、周りの人々も何事もなかったように生きていきます。
でも、私の中での時は止まったまま。
今すぐにでも、大切な人の声が聞こえて来そうなのに、聞こえない。
もっとちゃんと話せばよかった。
もっとちゃんと愛すればよかった。
恥ずかしがらずに、一緒にいられる日々を大切にすれば良かった。
「ありがとう」の気持ちを、心の底から自分の言葉で伝えれば良かった。
そんな気持ちが自分の中でなくなることはなく、むしろ日が経つにつれ大きくなっていきます。
後悔してばかりではいられないので、遺された者として、毎日を一歩一歩、新しい大地を踏みしめるように生きていきます。
そうしている間に、不思議な事に、亡くしたはずの大切な人が、私を見守ってくれていると感じる瞬間が増えていきます。
私が苦しんでいる時。
私が悲しんでいる時。
その人は、必ずそばにいるのを感じます。
共に苦しみ、悲しみ、変わらぬ愛情をもって、見守ってくれているのを感じます。
別に執着とか、この世に引き留めようとしているわけではなくて。
あちらはあちらの世界で幸せにしていてほしいし、変に悩みや思い残しになって、縛りたくはないのです。
それでも、危機の時、大切な瞬間には、必ず見守ってくれていて、必要な時にはサインをくれるのが、肌感覚で分かるのです。
だから、正直なところ、霊がいるとかいないとか、あの世があるとかないとか論争する気は自分には全くありません。
私にとっては、住む世界が違ってもなお、繋がりを感じる絶対的な存在だから。
というわけで、今日もその人に見られても恥ずかしくないように生きていきます。
またいつの日か、「あんな大変なこともあったね」と笑って語り合える日を信じて生きていきます。
その感覚、分かるよ、と思ってくださる方がいらっしゃれば嬉しいです。
今、大切な人を目の前にしている方。
後悔のないように、愛しているなら愛していると、生命があるうちに伝えて下さい。
失ってからでは遅すぎます。
永遠の後悔を、残さないでくださいね。
すでに大切な人を亡くされている方。
愛しているという思いを、向けてあげて下さい。
お盆のような時期は特に、想いが届きやすいと思います。
やっと最初の話に戻りますが、仏壇に向かって祈る時。
相手に分かりやすい言葉で、愛と感謝を伝えてあげて下さい。
きっと相手に伝わりますし、喜んでくれると思います。
少し重い話になってしまいましたが、最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。
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