【月刊お気楽フリーランス論 sidestory#4】「自殺する」と中川が言った日。〈前編〉---私は「死ぬな」と言えなかった
株式会社ケロジャパンの吉河です。今回は、中川が、会社設立からあまり時間が経たないうちに「死にたい」「自殺する」と言ったときの話です。
2人きりの会社で、社長に死にたいと言われた私。そしてこの時を境に、2人で会社をまわす、私たちなりのスタイルが確立してゆきました。
〈中川が作る会社で一緒に働くことを決意した2008年の暮れ。一年間の見習いが決まったものの、私は相変わらずぼんやりとしていました。〉
中川は、予定どおり2009年4月に株式会社ケロジャパンを法人登記しました。そして『ウェブはバカと暇人のもの』が同時期に刊行され、加速度的に仕事が舞い込むようになっていました。
ウェブ上で日々勃発している議論や、ニッチなところで話題になっていること、はたまた注目してもらう手法など、ウェブの生態系ならなんでもござれ。俯瞰した目による素早く鋭い分析を、独自の語り口で発する中川は重宝されました。
一方私は、経理まわりを担って欲しいという当初の話に従い、ライターさんやカメラマンさんへの支払いやクライアントへの請求、税金の納付などを粛々と処理。書き仕事といえば、時々中川から指示のある、タレントのSNSからトピックを拾う記事をみようみまねで作成するのが精一杯です。
お互いが手探り。見習いと言ったものの、毎日顔を合わせるわけでもなく、中川は自分に来た仕事をこなすことで大忙し。私は、中川から言われたことを可能な限り速くこなすことだけを心がけていました。
そんなある日。中川の原稿が来ない、と代理店のTさんから私に連絡が入りました(当時中川は、署名原稿以外の原稿は、提出時に私を同報していました)。
中川さんに連絡がつかない。メールの返信はもとより、電話にも出ない。締め切り時刻はもうとっくに過ぎている---。
慌てて、中川に電話しました。何度かコール音が鳴ったあと、中川は出てくれました。あ、出てくれた。とりあえず安堵したのとほぼ同時、中川が絞り出すように言いました。
「オレ、死にたい。自殺する」
…え。
自殺したいという告白に対して、私は何を言う術も持っていませんでした。息を呑んだまま固まっている私の言葉を待つことなく、中川は続けました。私が電話をかけた理由が、仕事のことだとは察したのでしょう。
「…ごめん、朝からパソコン(メール)見てないんだよ。動けなくて…。なんかあったかなぁ?」
弱々しく、いまにも消えてしまいそうな声。「今日、○○の締め切りだって、Tさんから連絡あった、」と急いで報告しながら、私の頭のなかはパニックでした。
「あぁ… 無理だ。できないや。なんにもできないんだ今。死ぬことしか考えられなくて」
本、気だ。
わかった。仕事ができる状態でないことだけはわかった。仕事のことは私がなんとかする、考えなくていい。考えなくていいから、お願いだから、少し待って。
「そっち、行こうか」
今思えば、なんとも間抜けな提案です。聞かずにすぐさま行けば良かったのです。
「いや、、(来なくて)いいよ。遠いでしょ」
「全然、すぐだよ」
「いいよ」
「でも」
死にたいと言う人に、死なないでと言えなかった。死んだらダメだとも言えなかった。
それは私の勝手な要望であり、本人の意思を尊重しないことになるのではないか。禁止あるいは行動を制限するようなことを、言っていいのだろうか。その権利が、私にあるのだろうか。死んだらダメな理由が周りが悲しむからだとしたら、本人の心は置き去りなのだろうか。
なくなっていい命なんてない、けれど、そういった類の言葉は、死にたいと思っている人のなかに入れてもらえるのだろうか。
言葉は頭をぐるぐるとよぎりましたが、私の口からはどうしても出ませんでした。
その時私が思い出していたのは、中川が数年前に大切な人を自殺で亡くしていたことです。やめて。やめて。まだ吸い寄せられないで。心の中では、いくらだってあっちにいかないで、と叫んでいるのに、声にならない。痛みが刻み込まれた人が、同じ方法をとろうとしていることがただただ苦しくて、気の利いたことも、正解も、何もわからなかった。
唇は乾き、鼓動が早くなった心臓はむき出しにされたよう。体の全部がヒリヒリしながら、人生、過去最高速で脳みそを回転させました。何を言えばいいんだ、何を。何を言っても無駄かもしれないけれど、それでも今できることが、声をかけることであるのは確かなんだ。
…そうだ。中川が死にたいって言うんだったら、同じように「私が~したい」という表現なら、私も言っていい気がする。「~してはダメ」みたいな言い方は私には無理っぽいけど、私がこうしたい、私はこう思う、っていうことだったら言ってもいいよね? 許されるよね?
「あのね」
私の声は震えていて、でもきっぱりと、言いました。後年、中川はこの時の私を「唯一怒った」と述懐します。怒ったつもりはなかったけれど、でも口調は怒っている人そのものだったんだと思います。
「私はヤダよ。中川くんがいた方がいいよ。+楽しいよ。今は何も考えなくていいし、仕事もなんとかする。大丈夫、心配しないでいいから、今日は休もう。
家には来なくていいって言うから、行かないよ? でもその代わり約束。一晩たったらもう一回電話する。だから、出て。それができなさそうなら、行くから。」
一晩という根拠は何もなく、賭けでしかありません。けど、少しだけでいいから、ほんの少しだけでも、先の約束ごとを持ちたかった。一晩だって相当長い時間なのですが。
じっと聞いていた中川は「わかった」と言葉少なにつぶやき、電話を切りました。
(後編に続きます)
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フリーになってから19年、ネットニュース編集を始めてから14年、本が売れてから11年、そして会社をY嬢こと吉河と始めてから10年。一旦の総…
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