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晩年の 『巨人・北大路魯山人』
小代焼中平窯の西川です。
本日は晩年の魯山人氏の口述筆記を行った
編集者/作家・阿井景子氏の目線から『昭和の大芸術家・北大路魯山人』の素顔を垣間見ようという試みです。
調べたところ、阿井氏は佐賀大学教育学部ご出身だそうで、私の先輩でした…!
いろいろな場所で、思わぬ繋がりがあるものです(^^)
※この記事は昭和58年『別冊太陽 北大路魯山人』掲載の阿井氏の文章を基に書いています。
※私の感覚で章を前後させたり、加筆したり、削ったりしていますので、気になる方は原文をお読みください。
阿井景子氏と『巨人・北大路魯山人』
昭和30年6月、
阿井氏は編集長である木田氏に連れられて、口述筆記を申し込むために魯山人氏宅へと向かいます。
この時、魯山人氏72歳です。
それまでに幾人かが魯山人氏宅を訪れたものの、怒鳴られたり、門前払いをくらったりしていたとのこと。
木田氏は
文芸評論の神様・小林秀雄氏を罵倒し、小林氏に殴られそうになった魯山人氏の話をしました。
木田氏「何しろ、えらく我儘な人らしいからね。」
阿井氏は「うまくいきますように。」という事だけを祈って、魯山人氏宅へと到着します。
魯山人氏宅へ到着した木田氏と阿井氏は、細長く明るい部屋へと通されます。
部屋は東側一面にガラス戸が嵌め込まれ、左手には蓮池が目に入りました。
魯山人氏は細長いテーブルのその奥に、さらに自分用のテーブルを置き、その前に腰を下ろして木田氏と阿井氏を見つめていました。
魯山人氏の眼鏡の奥の細い目が、まるで刺すように光っていたそうです。
阿井氏はカチコチに緊張し、木田氏が頭を下げるごとに、同じように隣で頭を下げました。
その阿井氏の緊張をよそに、この日の魯山人氏はえらく上機嫌でした。
木田氏は魯山人氏の苦しい台所事情を知っていて、四万円を入れた包を魯山人氏に手渡しました。
そして2時間ほどが過ぎて席を立とうとした木田氏を、魯山人氏は引き止めます。
魯山人氏「夕飯を食べていきなさい。といってもこんなところだから、うまいものはないがね。北鎌倉のうなぎなら、まあ食べられる。」
木田氏が恐縮する横で、阿井氏は困惑し、思わず魯山人氏へ呼びかけていました。
阿井氏「先生。」
阿井氏「こんなことを言っては申し訳ないのですが、私はうなぎは嫌いです。どうか私の分は注文からはずしてくださいませ。」
阿井氏は心の中で思います。
「ああ、もうこれで追い返されるかもしれない。
美食家魯山人の折角の好意を私は自分の好き嫌いで断ってしまった。」
阿井氏は、頭上に魯山人氏の雷が落ちると覚悟しました。
一瞬の間が、途方もない長い時間に感じられたそうです。
魯山人氏「ええよ。嫌いなものを嫌いというのは正直でよろし。」
一同「……………」
魯山人氏「鮎は好きかね?」
阿井氏「はい。」
魯山人氏「それなら、長良の若鮎が一匹とってあるから、それを君にあげよう。」
阿井氏は、怒号が飛んでくるものと覚悟していただけに、魯山人氏の優しさを意外に思います。
この日、魯山人氏は焼きたての鮎、ご飯、香の物、こぶとろ汁を御馳走しました。
阿井氏は魯山人氏の優しさに感謝しつつも、若鮎を味わうどころではありません。
魯山人氏が「来てもよい。」と言ってくれなければ、口述筆記の仕事が出来ないからでした。
魯山人氏の機嫌をそこねてしまえば、木田氏の企画した『魯山人の口述筆記を一冊にまとめる』という仕事がふいになってしまいます。
世間の魯山人氏への評判は傲岸不遜、狷介というもので、それに加えて魯山人氏には相手や所にかまわず怒りを爆発させる悪癖がありました。
怒らずとも、魯山人氏の堂々たる体躯や不敵な面構えには、そこにいるだけで十分に人を威圧し委縮させる力があります。
阿井氏は箸を置き、姿勢を正しました。
阿井氏「先生。明日からここへ仕事で御伺いしてもよろしいでしょうか?」
隣の木田氏にも緊張が走ります。
魯山人氏「ええよ。なんぼでも来なさい。」
阿井氏は歓声をあげたい気持ちを抑えつつ、深々とお辞儀しました。
笑いかける木田氏に微笑み返しながら、阿井氏は「よかったぁ。」と呟くのでした。
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魯山人氏宅へ通うようになった阿井氏ですが、気まぐれな魯山人氏に合わせ仕事の時間はマチマチで、仕事に取り掛かれない日もあったそうです。
当時の魯山人氏は『青いノート』という5歳くらいの女の子が主人公であるラジオドラマを楽しみにしていました。
魯山人氏「作者に会ってみたいほど、よくできている。」
しかし、この時は阿井氏も木田氏も、魯山人氏のこの言葉を何気なく聞き流していたのでした。
口述筆記が2ヶ月目を迎えたころ、目次らしきものが出来たので、阿井氏は普段より早く魯山人氏宅へと向かいます。
しかし、阿井氏は「おはようございます。」と口を開きかけて、言葉を吞み込みます。
魯山人氏が泣いているのです。
涙をぼろぼろとこぼし、肩を震わせて「う」「う」とすすり上げていました。
ラジオでは『青いノート』が放送されており、主人公の女の子の「おじいちゃん」という澄んだ声が流れていました。
ラジオの女の子が何かを言うたびに、魯山人氏は「う」と嗚咽を漏らすのでした。
魯山人氏は非常に不幸な生い立ちであり、生まれる前に父親は自殺し、母親の愛情を知らぬうちに里子へ出され、様々な家をたらい回しにされます。
さらにその家々では虐待を受け、魯山人氏はこの世に生まれた時から何かと戦わねばならない運命にありました。
人生での六回の結婚は全て破綻し、自身の子供達とも絶縁状態でした。
その後も阿井氏は、幾度か慟哭する魯山人氏に遭遇します。
魯山人氏は何気ないテレビやラジオの場面に、ぼろぼろと涙をこぼしていたそうです。
生まれながらにして魯山人氏の心に深く刻みつけれた傷が、わずかな情に触れては、ひいひいと悲鳴をあげていたのでした。
大きな身体を丸め、幼い子供のようにすすり上げる魯山人氏は、大きな身体であるだけに余計に哀れさが漂い、阿井氏はその場に縛り付けられたように動けませんでした。
阿井氏は魯山人氏の深部に触れ、魯山人氏に魅せられていきました。
8月末には阿井氏は魯山人氏の口述筆記の仕事を終えていました。
しかし、口述筆記の仕事を持ってきた木田氏は阿井氏への報酬を払っていませんでした。
そして12月上旬、木田氏から阿井氏へ電話がかかってきます。
木田氏「君、悪いけど、魯山人の所へいって、ゲラをもらってきてくれないかなぁ。
他の人がいってもダメなんだよ。」
※ゲラとは原稿を活字にしたもの。
魯山人氏は2ヶ月以上も手元にゲラを置き、編集部員が行っても渡してくれないというのです。
このままでは、魯山人氏の本の出版が頓挫してしまいます。
阿井氏は木田氏の図々しさに腹を立てつつも、魯山人氏宅へ行くことを約束します。
阿井氏は4ヶ月ぶりに魯山人氏宅を訪れ、ゲラの件を持ち出すと、拍子抜けするほどあっさりと手渡してくれました。
久しぶりに再会した阿井氏を、魯山人氏は嬉しげな表情で迎えてくれたそうです。
その後、仕事も終わったために魯山人氏宅へ行くことが無くなった阿井氏の元へ、魯山人氏からハガキが届きます。
大きな字で、
「たまにはお出かけください。」
とだけ書かれていました。
阿井氏の仕事が終わった後も魯山人氏が気に掛けてくれたのが嬉しく、休日になると魯山人氏宅へ行くようになったそうです。
魯山人氏「きみは、京都へいったことがありますか?」
阿井氏「いいえ。」
魯山人氏「それなら今度連れていこう。」
阿井氏は魯山人氏のカバン持ちという形で、京都へ同行することになりました。
京都到着後、京都ホテル屋上で茶人たちがパーティーを開いているのを知った魯山人氏は、会場の入り口へと歩み寄ります。
しかし、魯山人氏の姿を見た入り口付近の人々は、皆顔を凍らせ、まるで怪獣でも見たかのようにさっさと奥へ逃げ込みました。
当時、魯山人氏が茶人たちへ罵詈雑言のごとき痛烈な批判を浴びせていたのが原因でしょう。
ばつの悪さをかくすように「はっはっ」と高笑いを繰り返し、魯山人氏はなかなかパーティー会場の近くから動きませんでした。
その時、エレベーターから一人の女性が降りてきます。
その女性は裏千家の奥様・登三子夫人でした。
彼女はパーティー会場の人々とは異なり、魯山人氏の姿に気付くと、丁寧に一礼しました。
ほんの一瞬の出来事でしたが、阿井氏は何か救われる思いで、彼女を瞳で見送ったそうです。
昭和31年8月、
阿井氏は再び魯山人氏宅へ通い始めます。
魯山人氏との出会いから1年以上が経っていました。
この頃になると、魯山人氏宅の状況が一変しています。
1年前までは秘書やお手伝いや窯場の人々によって賑やかに運営されていた魯山人氏宅でしたが、この頃には窯場に1人、母屋には魯山人氏1人、訪れる人も途絶え侘しい状況となっていました。
人が少ないのは気分屋・魯山人氏の怒号にも一因がありますが、阿井氏は使用人達への給金が払えなくなっていたのではないかと想像されていました。
実際、魯山人氏の懐事情は厳しいもので、世界旅行の借金、滞納した物品税、即売展の税金などを抱え込んで火の車でした。
そんな時、阿井氏と魯山人氏の関係に亀裂が入る決定的な出来事がありました。
窯場の使用人が、何とか引揚者寮から主婦を1人連れてきて、その主婦に母屋の雑用を任せていたところ問題が起こります。
阿井氏「きれいなハムですね。」
そのハムはとびきり上等のボンレスハムでした。
主婦「先生が、(肉屋へ)返せというのですよ。」
阿井氏「このハムを?」
主婦「それで返そうとしたのですが、(肉屋の)小僧さんは引き取れないと言うのです。」
阿井氏「なぜですか?」
肉屋の小僧「だってスライスしちまったんだもの。かたまりなら引き取るけどね。」
主婦「でも先生はいらないって……。」
阿井氏はおろおろとしている主婦を見て、何とかしなければと考えます。
肉屋が簡単に引き取らないのは、当時こんな高級品を返されても他に買い手がつかないことと、肉屋に対して魯山人氏のツケがたまりにたまっていたからでしょう。
阿井氏は、肉屋がハムを引き取らないことを魯山人氏へ告げに言った主婦が、魯山人氏からガミガミ怒鳴られている声を聞きながら、一人気を揉んでいました。
これ以上魯山人を怒らせてはならないと、阿井氏は考えます。
肉屋の小僧を叱り飛ばし、お手伝いの主婦を罵倒すれば、恨まれて困るのは魯山人氏本人だからです。
阿井氏は怒気をみなぎらせて仁王立ちする魯山人氏の足元に跪きます。
阿井氏「先生。」
阿井氏「お怒りはもっともですが、今度だけは許してあげてください。」
魯山人氏「うるさい!!」
魯山人氏な雷のような声が落ちてきます。
魯山人氏「おれは、天下の魯山人だ。こんなものが食えるか、帰れ!!」
それは阿井氏の覚悟していた以上の、すさまじい大音声でした。
阿井氏は言葉も思考も失い、気が付いたときには、門への坂道を泣きながら駆け下りていました。
阿井氏「ひどい、ひどい、もう二度と来るものか。」
阿井氏は27年後、その当時を振り返ります。
「若い私は、自分が出すぎた真似をしたことに気付かず、怒った魯山人の狭量を呪いながら、泣きじゃくりつつ駅へ向かっていた。」
不遇な出自を持つ魯山人氏は、不幸な境遇から這い上がるために才能を磨き、世に認められようとしました。
しかし、魯山人氏の傲岸不遜な性格が災いして、その夢は星岡を頂点に潰えてしまいました。
魯山人氏の良き理解者であった青山二郎氏までもが、
「なんだ、近頃は個展の回数ばかり自慢しやがって。」と、魯山人氏を罵っています。
老残、孤独、借金……、晩年の魯山人氏は矜持でかろうじて己を保っていました。
それにもかかわらず、阿井氏は土足で魯山人氏の最後の砦に踏み込んでしまったのです。
美食も芸術も知らない若い娘であっただけに、魯山人氏の怒りは余計に沸騰したのでしょう。
死ぬまで制作活動を続けた魯山人氏を、人々は軽々しく「芸術活動を続けた。」と称賛します。
しかし、そのような言葉で片付けられるような状況ではありませんでした。
人々の矢を受けて傷ついた晩年の魯山人は生活のため、己の矜持のため、陶器を作り続けなければならなかったのです。
最後に阿井氏は、
「後の作品がよいのは、魯山人が作陶にしがみつき、陶器が『食物の衣装』でなくなったからではないかと、私は思っている。」
という文章で魯山人氏との思い出を締めくくられています。
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2024年6月29日(土) 西川智成
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