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「生みだす」という認識の範囲を広げてみてはどうだろう

原作者と脚本家の関係性については、今年のはじめに悲劇が起こったことによって多く語られるようになった。原作と脚本はむずかしい問題だ。書き方は違えど、ト書きとセリフによって成り立つ文章であるが故に今回に限らずさまざまな問題を引き起こしてきた。ぼくが最も印象に残っているのはシナリオ作家協会による「1円裁判」。もともとは映画化するにあたっての改作をヨシとしなかった原作者(小説家)がタイトルを変更することで何とか映画公開まではできたが、「年鑑代表シナリオ集」への掲載を認めなかった。これは脚本家の名誉に関わることと起こした裁判だ。結局掲載の許可はとれなかった。
脚本家の荒井晴彦さんは、原作ものはまずセリフをすべて書き起こしてからストーリーを構成していくと聞いたことがある。もちろんここには小説と脚本はちがうという前提があってのことだし、映画は芸術でもあり興行でもあり、たくさんの人たちが関わるものだ。小説をそのまま映画にしようものなら何時間あっても足りないし、心の声ばかりになったり役者が何も言わず観客が読みとれないことばかりになって興行的に失敗する可能性は高いだろうと思う。調べてみると荒井さんは最近もまた脚本の改変で裁判になっていたらしい。荒井さんの脚本で生みだされたすばらしい映画はたくさんある。それを知ってるかどうかでも印象は変わるだろうな。脚本って多くの人にとっては触れる機会の少ないものだ。その差もある。
やはり原作と脚本は別物だとぼくは思う。原作を生みだすことはすばらしいと思うし、その人もすごいと思う。でもメディアがちがう。映像になるということは生みだした自分とは離れていくこと。脚本には注文をつける。でも演技プランはちがっていないか?編集によって原作の意図と外れていないか?きっとそこまでチェックする人はいないだろう。結局は文章は注文されやすい場所にある。原作に誠意を持たないことは問題外として、原作に忠実につくることが誠意とはぼくは思えないでいる。原作者と同様に脚本家も生みだしている。

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