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私にとってのnote

※つぶやきじゃ収まらないだろうと察したので、
大きなつぶやきとして見てね。


最近、noteに文章を書きたいと思うのに、上手く書けないことが多い。

もっと気楽に書けばいいのだろうけど、どうしても「伝える」の3文字が頭から離れなくて、「伝える」ことを前提に書こうとしてしまうから、書いては消し、書いては消し…の繰り返しで、結局記事ごと消してしまう。

私はこのnoteとは別で、ジャーナリングノートというものを作っている。これは、“書く瞑想”とも呼ばれていて、個人的には思考の吐き出し場所として、書きたくなった時に、そこに考えてることをガーッと書き出している。よほどネガティブに陥ってない時以外は、頭の中がスッキリする感覚があって、なんやかんや去年からずっと続いている。

そのジャーナリングノートに書くことは、誰かに見られることを前提としていないので、もうほんとに自由だ。感情を丸々ぶつけることもあるから、言葉遣いが荒くなったり、時には書きながら泣くことだってある。字だって、日によって汚いときもある。

でも、その分私の生きた証となって、大切に残っている。


私は、このnoteをジャーナリングの延長として始めた。
というのも、ジャーナリングを通して新たに出逢えた考えを共有したくなることがあったからだ。
ただ、ネットという場だから、「伝える」ということは初めから念頭に置いていた。どう書いたら上手く伝わるのだろうか、言葉遣いに気をつけなきゃ、あれは違う、これも違う…。それを繰り返したら今、この「伝える」という言葉が強く私を縛り付けて「書く」という行為に自由をもたらさなくなってしまった。


もっと自由に書きたい。


そう思うのに、記事の向こうにいる“だれか”を意識した瞬間、言葉が出なくなってしまう。
上手く文章を書こうという気持ちが先走ってしまって、なにが“上手い”なのか分からなくなってしまう。
今も、言葉に詰まってしまっている。

多分、私の考えすぎる性格が裏目にでているのかもしれない。あとは、真面目すぎる性格もきっと関連している。

何事にも、“気楽に”ということが出来ない性格だから、あらゆることに完璧を求める。

このnoteだって、ジャーナリングの延長で始めたのなら、もっと自分のために、自分の生きた証の場として、なににも制限されず、のびのびと“気楽に”書いた方がきっといいのだ。その方が、自分の思考を表現できる。


このnoteは、私を表現する場所。


そう考えた方が、上手く書ける気がする。
ありのままの自分を、ありのままの言葉で、この場所に紡ぐ。「伝える」とか「共有」も大事だけど、前提として文章に“自分”がいることの方が大事だ。

いいかい、これから先noteを書く自分。
“だれか”を意識することもいいことだけど、“自分”を見失った文章は書くなよ??本末転倒だぞ??


以上、大きなつぶやきでした。
お付き合い、ありがとうございました。

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