見出し画像

「ナニモノ」かになる話し

春到来
全国3,000万の花粉に悩めし者たちよ、ごきげんよう。のぶのぶである。

半月ほど花粉のない所へ行っておったが帰ってきたら鼻水・くしゃみ三昧。ワシもこの季節はそちらと同じく杉や檜が恨めしい子羊の一人じゃ。この季節、日々辛いのう。。

今回は存在とポジションをテーマに語ってみたい。
何の話かというと我々が普段自覚してないが、それぞれ社会や家庭、コミュニティの中などで付けられる様々なバリエーションの名前や役割の事だ。

わしら日本人、いや人間は生まれてから死ぬまで様々な名前を持つ。
そんなことはない、私の名前は一つだ。と自分の本名を思い浮かべる者も多いかも知れんが振り返ってみるが良い、これまで様々な名前がつけられてきた事を。

人が生まれて直ぐに身につけられるのが所謂「名前」で、初めて所有するものでもある。
そして赤子から子供になり、親や親族そして友人たちから種々様々なニックネームで呼ばれる様になる。そしてそのニックネームらしきキャラになってもいった。
その幼き日々を懐かしく思い出せるだろうか。

わしも様々な名前を持っておった。本名は結構長いぞ。
「平朝臣織田上総介三郎信長」
これを見ればあの時代の武将として様々な角度からの座標が仕込まれているのが分かるだろう。
ちなみに童の頃は「吉法師」だった。この時代、夭折する確率が高かったので縁起のいい名前がよく付けられたものだ。

現代社会、夜の街へ繰り出すとわしに向かって不届き者が「社長~!」などと呼び書けてくる。思わず「無礼者!!」と切り捨てたくなったりもするが、今は笑いながら受け止めている。
彼等は何故「社長」というキーワードを使うのか。
この種の心理的手法はおぬしらも様々なところで無意識に使っている。

また、政治家や医者、弁護士、芸術家なども教える立場でもなくとも「先生!」と呼ばれる。
「先生」とは読んで字の如く、学芸の秀でた者、生き様の素晴らしい人物への敬称であるんだが、現代ではその精査なく丸っと一括りで使われている。
関係性構築に便利なのだろうがここにも鍵がある。

この名前というものは非常に呪術性が高いもので、我々も普段から使いこなし、またはその術中にもハマっている。
肩書きが付くと様々な意識のスイッチが入るのだ。

「学級委員長」や「生徒会長」に選ばれた時、その役を担うべく意識の切り替えがあったはずだ。
スポーツでも「キャプテン」や「四番」、「クォータバック」とか「センターフォワード」など付くポジションで意識と動きが変わる。

芸事の世界でもそうだ。「襲名」という言葉があるように、時代性をともなった名前を背負うとそのスイッチが入り、芸そのものがバージョンアップしたりもする。
家元が名前を与えたり、自分の名の一字を下の者へ与えるのも関係性の強化と結束を促す働きがあり、自分であって自分以外の存在を憑依させる行為が名前の中に内包されている。

これは天皇家や公家も良く使っており、「位打ち」とか「官打ち」と呼ばれている手法で、相手に分不相応な階位を与え、平衡感覚を失わせたり、仲間内での嫉妬を煽り破滅させてゆく戦略で、家柄が最優先される時代においてかなり効果的な呪詛でもあった。

この国を動かす時の勢力争いは人の名前だけでなく時代名まで操作する。
「元号」がそうだ。これは大陸からの由来だが、時間管理と時間秩序の争奪戦でもある。
わしは天下布武をほぼ掌握し、時の将軍・足利義昭を追放して直ぐに元号を「天正」に変えた。
おトヨも「文禄」と「慶長」と2度も改元し権力者の地位を示した。そしてヤスもまた大坂夏の陣の後に正式に天下人として「元和」と時代に名前をつけている。

今は「西暦」という宗教と政治の力が世界へその影響力を示していて「元号」を保持しているのは世界で日本のみになっている。オモシロイもんだ。政治的というより文化論としてこれからも独自路線を貫いて欲しいと思うぞ。

という訳で色々名前を付ける事、変える事について少し綴ってみた。
この名付け行為の呪術性・スイッチ性は話し始めるとキリがなく、またおぬし自身でも色々思い浮かべる事が出てくると思う。
別の切り口の考察はまた別の機会にし、今回はこのあたりにて。

そしてこのシリーズ、わしも「のぶのぶ」などと自称し、強面を弱め愛されキャラを少し期待している事をここに告白しておかなくてはならないだろう。
時代は変わっているのだ。

皆のもの、自分をナニモノにするかは自分で決められるのじゃ!

ではまた会おう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?