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博士は今の時代に求められていると感じています|中原 剣氏(PhD)

2003年卒業
現職:株式会社ロート・F・沖縄 代表取締役

NAISTでは、光合成をテーマとした研究で博士号を取得。2020年からロート製薬株式会社アグリテック開発部の部長として研究開発を行う傍ら、株式会社ロート・F・沖縄 代表取締役として研究成果を事業化する業務を兼任。そんな中原剣さんに話を聞きました。


小学生の頃から光合成に興味があり博士の道へ

小学生の頃空気は誰が作っているんだろうかと思うことがありました。調べていくうちに植物の光合成によって生み出されることを知り、光合成こそ生命の根源なんだと考えるようになり、漠然と光合成を研究する研究者(=博士)になることを夢みていました。
光合成が好きでしたが、致命的に数学が苦手で(笑)。理数系の中でも文系的要素も多い生物の道へ進みました。

研究者としてのスタンスが明確に変わったドクター時代

修士の頃は、どちらかというと教えてもらえる受動的な立場でしたが、ドクターに進むと、自分で仮説を立てて研究を組み立てるという能動的な立場にガラッと変わったような気がします。学内だけではなく論文という学外からの評価があり、しっかりとした研究結果が出なかったら卒業できないといった点でも修士までとは異なる世界になったと感じました。そういった環境がゆえ、本当に自分は研究者になりたいのか?と自分と向き合う時間も多くなったと思います。
研究室での役割もセミナーの司会を任されたり、発表に対する意見を求められるなど、メンバーをリードする立場になっていきました。周りに教えてもらったり、誰かに手伝ってもらえる環境ではなくなったので、主体的な姿勢で取り組まないとカタチにならないと強く感じました。
ドクターに進学した頃はそういった環境の変化にしんどさを感じることもありましたが、D1の7月頃だったと思いますが、明確に自分の感覚変わった瞬間がありました。誰かに指示されたり、教えてもらっていた環境から「自分で好きなようにしていいのだ」という人生の主導権が自分に移った瞬間というか。それからは自由度が上がり過ぎて研究以外にも興味が向いたことは全部やってみようと、農業のインターンに行ったり、服飾学校に通ったり、アトリエに通って絵を描いたりもしました(笑)。何か一つの特別なきっかけがあった訳ではありませんでしたが、内省に加えて色んな外的要因が重なったことで、自分の中で何かが弾けたんだと思います。
また研究者として、大事な考え方を教えていただいたのもこの頃です。教授から「ちゃんと失敗することが大事だ」と言われたことがありました。研究していると失敗することも多いのですが、「手を抜かずに失敗することで得られるものがある」と。中途半端な設計の実験をすると何が原因であったか突き詰めることが出来ませんが、しっかりした設計による失敗であれば原因を突き詰めることができ、次に進めることができますし、同じような失敗をする人も減らせます。良い結果をだすことは大事ですが、失敗したときに原因がわかるようにすることも同じように大事。この考え方がとても印象に残っています。
こういった考え方や哲学、自分の人生は自分で舵をとっていくという生きる姿勢の変化は、博士時代で一番の産物となりました。また自分の強みや弱みについて周囲と比較して客観的に見る力、仮説検証力や構想力、データをもとにロジカルにプレゼンするといった技術は、今の仕事でも日々つかっているスキルです。データをまとめたり、実験技術を学ぶのが修士だとすれば、それらを総合的にプロデュースし、発表や報告という形で社会にアウトプットしていくのが博士だと思います。今の時代は、仕事を総合的にプロデュース出来る人の価値が上がっていると感じますし、実際に現職でも博士で学んだ経験がとても役に立っています。

様々な経験が気付かせてくれた職業観

研究を通して、光合成のメカニズムは人知を超えた完成度であるということを感じました。そうした思いから、植物を操作して光合成の効率を上げようとするのではなく、植物を上手く活用して生活を豊かにするやり方もあるのでは、といった考え方に変わっていきました。こうした心境の変化は博士号を取得するまで学問をやり切った上で、自分は基礎研究よりも応用、特に人の生活に近い分野で好奇心がより強く動くということがわかった中で起こったのだと思います。研究者以外でも光合成を活用する仕事に興味を持ち、中でも自給自足に関わることに興味があったので、農業や大工といった職種に目を向けるようになりました。
卒業後は、ワイナリーに就職して、畑の開墾からブドウの栽培・収穫、ワインや蒸留酒の醸造などの仕事に携わりました。当時、一緒に働いていた現場監督出身のおじさんが、小屋を作ったり、畑を整備したり、土地を測量したり、とマルチに仕事ができる姿を見て、色んなことを自分で出来る人に憧れを持つようになりました。また、元々身の回りのことを全部自分でやることに興味があったこともあり、その最高峰である家を自分で建てられるようになったらかっこいいなと思うようになりました。

そこで、ログハウスを自分で作れるようになろう、と思い立ち、カナダにある世界的に有名なログハウスのスクールに通うことにしました。一度は海外に出てみたいという漠然とした気持ちや、広大な自然の中で生活してみたいという安直な気持ちも大きかったですが(笑)。スクールにはプロから素人まで幅広い人達が世界中から集まっていました。学校とはいえすべては自己責任の世界。冗談抜きで、肝を冷やすような、安全管理上日本では絶対に許されないであろう環境下で学びました(笑)。その後は半年間、自給自足をしている家庭を転々とホームステイしながら、主に家を建てるのを手伝う対価として食事と寝るところを提供してもらうという生活をおくりました。日本では想像もできないような、スケールの大きなカナダでの生活は貴重な経験となりました。

ログハウスのスクールで出会ったドイツ人カーペンターの圧倒的なプロフェッショナルな佇まいに魅了されたこともあり、日本に戻った後は職人になってみたいと、募集もしていないのに無理矢理直談判して、富山で宮大工の見習いとして雇ってもらいました。実際に宮大工の仕事をさせてもらうと、自分には向いていない仕事だということがすぐにわかりました(笑)。技や仕事に対するストイックな姿勢、刃物を研ぐことすら一生かけて精進するような世界観。宮大工の仕事をさせてもらって悟ったのは、憧れる職業と向いている職業とは一緒ではない、ということでした。そもそも自分に向いていることは憧れる必要もなく淡々とできている類のものだからです。自分にとっては普通だけど人より出来るようなもの、そういった自分には意識しにくいことが実は向いていることなんだな、と気づけたのが宮大工時代の一番の収穫でした。

様々な経験を経てバイオの世界へ

30歳になる頃、自分が今まで淡々と出来た研究や博士の時代を思い返し、バイオの世界に戻ることに決めました。当時あったバイオベンチャーを手あたり次第インターネットで調べて、面白そうな企業にいくつか応募した結果、とあるスタートアップに採用してもらいました。そこからバイオベンチャーの事業開発員としての道を進むことになりました。ユニークな進化理論に投資が集まったけど、まだ売るものはない、という不思議な会社でした。そこからコンサル出身の社長がリードしながら進化理論を育種技術に変え、その技術を提案型の営業で販売する、というビジネスモデルを作っていきました。初期の頃は伝手を頼って色んな業界の人々に提案へ行き、研究受託の仕事を請け負わせていただきました。お情け的に頂いていた仕事も多かったと思います。ただ、その時代に色んな業界の方々と一緒に研究をさせてもらったことで、分野横断的にバイオ業界について知ることができたのは幸運でした。製薬企業、食品企業、素材企業、化学企業など様々なところでバイオの技術が使われていることが知れたからです。最初のうちはお客さんの研究の一部を請け負う仕事でしたが、その内こちらから研究プロジェクトを提案して、開発予算をつけてもらえるようになっていきました。色んなプロジェクトを考えては提案を繰り返す。今で言う小さなスタートアップを何個も立ち上げていく感じで、プロジェクトを作っては回していきました。そんな中、微細藻類という新しい素材に出会います。当時は誰もやっていなかったのと「光合成を始めた生物」という個人的興味もあって、力を入れていたらちょっとしたブームがやってきて、その分野では第一人者的な立場になっていきました。各種セミナーに講師として呼ばれて微細藻類の魅力を話しているうちに、一緒に研究開発しましょう、と営業せずとも人が声をかけてくれるような仕組みが自然と出来上がっていきました。人が投資したくなるような絵を描いて、研究という形からはじめ、芽がでてきたものは事業として育てていく。そんなことを繰り返している中で、自分は構想を描くことが向いているのかも、と感じるようになりました。やりたいことが沢山浮かぶタイプなので、それを実現するには?を考えて研究や事業に落とし込んでいく。バイオベンチャー時代はそういった事業構想力を鍛えてもらったように思います。こうして新規事業を立ち上げる能力と微細藻類に関する専門性が自分の武器になっていきました。そのバイオベンチャーでは13年ほど勤め、自分の役割はある程度全うできたと感じたのと、分散型の社会構造興味が出てきた中で40歳を迎えました。ここから先、もう一仕事をするなら地域創生に関わることがしたいと思い、転職を考えていたら現在の会社(ロート製薬株式会社)が地域での事業をやっていることを知り、その後ご縁をいただいて今に至ります。
今の仕事の面白さは、自分で構想を描いて自分で肉付けしていけること。まだ誰も描いたことのない社会をイメージし、それを実務者として形にしていけることが醍醐味です。また、微細藻類は幅広い資源であるため、食品や素材だけでなく化学、農業、水産、環境など様々な分野へと展開できます。この事業展開の幅広さがあるので、飽きることなく仕事をし続けられていることも有難いです。

大学院時代から現在までを振り返って

視野が広がったと思います。修士時代は実験テクニックの習得に目が向いていたのですが、博士時代は、自分である程度研究をプロデュースしていくことや自身の生き方などの哲学的なことに興味の対象が広がりました。社会人になってからは自分と社会との関わり方に目が向くようになりました。研究だけでは社会は動かない。研究して、加工して、製造して、販売して、お客様からのフィードバックを受けて、といった事業の流れを通して経験したことで社会との繋がりを意識できるようになったことが大きいです。長年、社会のおける卵のような存在のベンチャーにいたことも、社会に育ててもらったことを感じさせる要因の一つです。社会に育ててもらうにつれ、自分の立ち位置や視点もシフトしていったと思います。元々私は社会性に乏しく、自分のことばかり考えている人間でしたが、年齢を重ねるごとに徐々に自分への興味が希薄になって来て、次の世代や社会に何が残せるか、という気持ちの方が強くなってきました。自分のことだけ考えていても飽きてしまって、エネルギーを燃やし続けることが出来ない仕組みになってるのかなと分析しています。

博士が活躍出来る時代になってきている

現在の仕事においては、自分の好奇心とか感性とか素直さを大事にして、それらを価値に変えていくことを心掛けています。組織でやっていく柔らかさは必要だと思いますが、組織に過度に忖度しないようにとか、上から言われたことに従うだけだと面白い発想が出てこなくなるので、自分の感覚を大事にしています。成長社会から成熟社会に入り、色んな形の正解がありえる今の時代であるからこそ、自分の感性で構想を描き、それを事業にしていくというイメージです。これからの成熟社会においては博士になることのメリットが増え、活躍出来る場がどんどん広がっていくと思います。指示された仕事をしっかりやれる人は多いですが、自分で提案を考えて仕事を生み出せる人がまだ少ないからです。

今後の目標:新しい第一次産業への挑戦

個人的に、微細藻類という新しい資源を活用して、新しい一次産業を作っていくということを目指しています。人類にとって一次生産の選択肢が増えることは誰にとっても損がないことだと信じているからです。微細藻類という光合成を始めた生物に一生をかけることになったのは、幼い頃に光合成に魅せられた人間としては筋が通っているかなとも思います。たどり着くまでに随分な紆余曲折はありましたけど (笑)。

奈良先端大の皆さんへメッセージ

研究をするには凄く良い大学院だと思います。良くも悪くも周囲に何もないので研究と向き合う以外なく、「研究とは何ぞや。」という本質的なものを突き詰められる環境があるからです。研究と真剣に向き合ってみて、すんなり進むのであれば研究が向いているのでしょうし、違和感を覚えるのであれば、別の道に進めばいいと思います。NAISTで過ごす一つ一つの経験が自身の研究者としての適性を見極める判断材料になっていくはずです。一流の先生方や仲間の研究に対する姿勢を見ることで、自身が研究に向いているかどうか嫌でも見えてくるところありますし。第一線の研究者が集まる大学院に通うことの価値はそこにあるかと思います。
あと、私のように道を外す期間があっても社会は意外と受け入れてくれるものなので安心してください (笑) 多少回り道してでも自分の得手不得手を客観的に把握できている人のほうが価値を見出しやすい社会になってきています。博士になることは自分の好奇心から価値を生み出す能力を身につけられることでもあるので、専門知識を活かして新しい価値を作っていってもらいたいです。新しい価値を産み出してくれる人材をこれからの社会は強く求めていくはずなので。


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