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未来ってあると思ってた

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2013年、東京。
下りの中央線を降りて、吉祥寺駅の改札を通る。21:40。満月を模した文字盤のついた腕時計は、夜を知らせている。
あかるい大通りを渡って、井の頭公園に続く細い道を通る。雑貨屋も珈琲店も今はシャッターを下ろし、眠っている。ファミリーマートの灯りだけがわたしの横顔を照らす。
「バイト終わった!もうすぐ家だよ」
LINEを送ると、すぐに返事がきた。
「おつかれさまな」
その7文字は、わたしをいたく幸福な気持ちにする。
大学4年生になってから付き合った彼氏は、わたしと違う大学に通っており、わたしと違う地方の出身だ。東京に住んで4年になるのに、いまだに関西弁を好んで使う。おつかれさまな、の「な」は、関西弁でいうところの「そんでな」とか、「せやな」とかそういう時に使う語尾だと思うのだけれど、彼はあえてその語尾を多用する。まるで猫の鳴き声みたいだと思う。日なたで丸まった、ふくふくの猫の柔らかい鳴き声のようだと。

公園の入り口に差し掛かったので、わたしはiPhone5を取り出し、ミュージックに入れてあるくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」を流す。イヤホンから流れ出す小気味いいメロディ。曲のリズムに合わせて、わたしは公園へと続く坂道をずんずん下る。
夜の公園の坂道を歩くとき、この曲が世界で一番、合っていると思う。(音楽の専門用語はよくわからないけれど)鼓動のようなリズムが、歩くテンポに重なるからだ。

歩きながら、いつも思うこと。
未来ってあるんだな。
わたしはこれから、なんにでもなれる。

夏頃にはすでに就活を終え、第二希望の企業から内定をもらっていた。そこでの仕事が自分に合うのかはわからない、けれど。
もうすぐで坂道が終わる。
これでやっと自立できる。親からの仕送りがなくても、自分の稼いだお金で生活ができる。大学時代にがんばってきたサークルの活動を、面接でアピールして、認められたこともうれしかった。これからいろんな出来事がわたしを待っている。どうなるかはわからない。
でも、未来ってきっときらきらしてるんだ。
根拠もなくわたしはそう信じていた。

坂道を下り終えて、平たい道を歩き出すと、井の頭公園には大きな池が広がっている。人気のないしずかな空間。夜の水面は暗く、真っ黒だ。でも不気味に見えないのは、並んだ街頭の灯りが、いくつも水面に落ちて、ゆらゆら、きらきらと照らしてしているからだ。
わたしは毎晩のようにこの光景を見ては思う。
きっと、新世界ってこんな感じだ。
iPhoneをすばやく操作し、キリンジの「エイリアンズ」に曲を切り替える。伸びやかで甘い、心の芯をとかすような堀込泰行のヴォーカル。
ここでわたしはいつも立ち止まり、遠い街の湖のほとりに立っているような錯覚の中で、ぼうっとする。水面に伸びる灯りが、月の光のように白くて、きれいだ。
キリンジが歌う。ごらん、新世界のようさ。

大好きな音楽、やさしい恋人。新しい仕事。みちるエネルギー。
わたしの手は今、少しずつだけどいろんなものをつかめている。
大丈夫。未来ってあるんだ。


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2024年、秋田。
台所の換気扇の下で、二本目のマルボロを吸いながら。
私の指はあのころと同じく、素早く器用にiPhone12で曲を選ぶ。「ず、か、ん」とSpotifyの検索欄に打つと、くるりのアルバム「図鑑」が表示される。
そこから「マーチ」をタップすると、激しいドラムのイントロが流れ出す。
23時だというのにまだ眠りは訪れない。それでいて煙草を吸うのは、脳を覚醒させてしまうので、きっと間違った行為だ。間違った。あれからいくつの選択を間違って、正しい道をいくつ選びとれただろう。

結論として、32歳のわたしには、未来が見えなかった。
新卒で入った会社は身体を壊してやめた。もともとストレス耐性が低いのに、よく総合職で金融の仕事に挑もうとしたものだ。無謀だった。そのあとまた東京の会社に転職したが、そこでも仕事は続かなかった。
家族や友達、ヤブ医者、上司らとなんども相談を重ねて、結局私は東京を離れ、実家に帰ってきた。
よく言えば自然に囲まれた、悪く言えば人も仕事もわずかしかない、過疎化の進むばかりのこの街に、希望なんてあるはずもない。

ゆるゆると煙を吐く。いろんなものが手に入らない。幸福ってなんだろう。親孝行ってどうしたらできるだろう。また人を好きになれることってあるのかな。そんな中学生みたいな、ひたすら不安と焦りと懊悩に追いかけられるばかりの日々である。

あのころ。夜の井の頭公園で、大好きな音楽をイヤホンで聞きながら、ずんずんと歩いていたころ。
未来ってあると思ってた。
その考えが、フレーズが、最近何度も私の頭を支配する。こうして、夜にひとり煙草を吸っているときなんかも。駅のホームで電車を待つ時間や、車を運転して人気のない街を眺めるときなんかも。

結局、あのころに交際していた優しい関西人の恋人とは、ひどい別れ方を一方的にして、終わってしまった。そのあとSNSで、彼が結婚したことを写真付きの投稿で知った。うっかりフォローを外さずに放置していたのだ。まったくうっかりしていた、と思う。
自分から手離した相手なのに、わたしは彼との別れを何年も悔いていた。それは気持ちの悪いことだ。迷惑千万だ。そう思って、彼との出来事はいつも苦い後味を伴ったかたちでしか、思い出せない。わたしは彼と今後二度と連絡を取らないし、彼の中でわたしの存在なんて、もう忘れらているか、あるいはタブーのようになっているだろう。

それでも、時々頭に浮かんでしまう。彼のアパートのこと。狭いワンルームの部屋。防音設備なんてまるでないようなアイボリーの壁。ほこりだらけのユニットバス。天井に頭をぶつけそうなキッチンで、いろんな料理を作り、彼とこたつで食べた。煮込みうどん。おままごとのような日々。
彼がもう、燃やしたのか破いたのか、どうしたのかはわからないが、すっかり跡形もなく心から消し去ったであろう、わたしたちの生活の記憶。
彼からしたらもう、自分は忘れたのだし関わりたくないのだから、君も忘れてくれ、と思っているだろう。いや、そんなことすら頭に浮かばないかもしれない。でもわたしは、うまく忘れられずにいる。戻りたい、とは思わない。戻ってもまた彼を傷つけるだけだ。第一彼はもう既婚者だ。

かなしいのは、わたしが社会人になってからは、ほとんど鬱で寝込み、病院に行き、なんとか復職してもうまくいかずに泣きながら帰宅する、このルーティンの日々だったので、大人になってからの経験の積み重ねが、まるでできていないということだ。
社会人になってから、自分の力でなにかを成し遂げたり、キャリアを積み重ねたりしたという実感がない。当然だ。病気で寝てばかりいたのだから。
ましてや、結婚なんて。同い年の友達も、妹も、もう結婚して自分たちの家を持ったり、子育てをしたりしている。
そういう生活は、もちろん大変なこともあるのだろうけど、人生を一つ一つ、しっかりした積み木を積むように、前に進めている実感があるのではないか?と思う。わたしにはそれがないから、心底うらやましい。
どうすればこの現状を打破できるのだろう。どうすれば。そう思ってまた眠れない夜が更けていく。

上記の通り、大人になってからのいい思い出がほとんどないし、くだらない恋愛のごたごたの記憶なんかはほとんど手離してしまったので(そこはえらい)、わたしには心のよりどころが、大学生の頃の記憶になっている。

アルバイトの帰り道に歩きながら聴いたキリンジ。
あるいは、夏の井の頭公園の、木漏れ日をぎらぎら浴びて、はしゃぐ親子を眺めながら聴いていた『ザ・ワールド・イズ・マイン』。
いちょう並木の大学の道を自転車で駆けたこと。
それから、それから。

失ったもの、手に入らなかったことばかり数えても仕方がない。それはわかっている。でも、そういうかなしさの水に足を浸してしまう夜もある。


2013年、21歳の自分。
未来があると思ってたけど、ごめんね。
今はまだ見つけられてないよ。望む場所に立てていない気がするよ。
それでも、あの時わたしの心をはずませた音楽は、今もわたしの支えになってるよ。

来月、たまたま東京に行く予定があるので、数年ぶりに吉祥寺にいこうか、と思う。
公園でワールズエンド・スーパーノヴァを聴いたら、時空が溶けるような感覚がして、過去と現在がうまく、つながらなくなるかも。
そのとき、私は少しかなしいのかな。


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ぬるくなったマグカップのお茶を飲み終えたので、今日はこれでおしまい。
この文章に、希望とか結論とか、とくにない。
今日はぐっすり寝たい。