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情と記憶

どうも、へばろんです。
久しぶりに記事を書かせていただきます。

今回はタイトルの通り情と記憶ついて、思ったことを書いていきます。

まずザクッと言ってしまうと
感情を含めた記憶はその人にしか持てないもので、自分以外がその価値を知ることはできない。自分だけしか知り得ない唯一の宝物。
それはかけがえのないもので、大切にするべきもの。


僕がなぜこんなことを考えたのかというと、この記事を書いている本日4/24に、2年半育てていたスネークヘッドというおさかなちゃんが死んでしまったからです。
このスネークヘッドにはブルちゃんという名前を付けて可愛がっていました。

ブルちゃんを飼うきっかけについてまずはお話しします。

始まりは行きつけの接骨院の先生で、その接骨院ではアクアリウムをやっていました。
ある日そのアクアリウムの中に個人的に好みなデザインのおさかなちゃんがいたのです。

僕はそれをじーっと見ていました。

エッジなど一切感じさせないぬめっとしたフォルム、何を考えているのか分からない顔、それでいてムスッと閉じてる口、僕が好きな要素が詰まったおさかなちゃんでした。

そんなある日接骨院の先生が

「その魚スネークヘッドっていうんだけどあげるよ」

と言いました。
僕はまともに生き物を飼ったことが無かったので答えは保留にしてその日は帰宅した。
それからスネークヘッドを飼うためにどの水槽を買うのか、フィルターはどうするのか等を調べて購入し、水槽を立ち上げた。

そして先生に水槽の用意が出来たのでお迎えをしたい旨を伝えに行くと、数日後に連絡するからその時に引き渡すとのこと。
その数日後に先生から連絡が来たので接骨院へ向かった。

接骨院に到着し先生に会うや否や迎える予定だったスネークヘッドが水槽から飛び出して干物になってしまったという衝撃の事実を告げられた。
申し訳ないのでその代わりになる個体を取り寄せたとのことで、僕が見ていたスネークヘッドより二回りくらい小さいスネークヘッドをお迎えした。
これがブルちゃんとの出会いです。

それからは家に帰りすぐに水槽に慣らして放流した。
放流された途端に隅に移動した。
きっと元々の性格が臆病だったんだと思う。
その後は慣れてきたのか動き回ったりフィルターを通した水を出すパイプの中に隠れてたり流木の影にいたりとにかく隠れていた。
餌は小型用の餌をあげていた。
水面までひょっこり出てきてパクパク食べていてとても可愛かった。

時は経ってブルちゃんはあの頃と比べると一回りは大きくなっていた。
餌も前よりも食べ応えのあるやつに変えたりした。
よりパワフルになっていたがそれでも臆病だった。
人がいない時に隠れ家から出てきて泳いでいたり、夜中になると悠々と泳いでいたり、そんな時を見るのがすごく好きだった。
この頃はブルちゃんがニート気味だったのでスポイトの先に餌を取り付けて隠れ家の前まで持って行くとそれを食べるっていうシステムが出来上がっていた。

パワフルさを身につけてきていく中でブルちゃんは2度脱走した。
1度目は脱走してすぐのところを保護、2度目は1度目よりは保護が遅れていたがちゃんと反応もするし水に戻してあげたらすぐに安心するところまで泳いでいた。
この2度の脱走を通してブルちゃんの脱走経路はほぼ塞がれていた。

そして今日3度目の脱走があった。
気づいた時にはセミドライの二歩手前くらいの状態に見えた。
体も硬直していて今回はかなりやばいと思ったのですぐに水の中に戻してあげたが、たまにピクッとほんの少し動く程度だった。
この時は7時で仕事に行く直前だったので回復することを信じて出社した。
通勤中もずっと心配だった。
一度8時ごろにパートナーに確認してもらったがこの時点でもうダメそうだった。
おそらくこの時にはもう死んでいたんだと思う。
それでもブルちゃんの死を受け入れられなくて何度か連絡して確認した。
スネークヘッドが脱走した後に復活した情報を何度も見た。
希望的な情報をとにかく見まくってた。
もしかしたら復活するかもしれない、そう信じていた。
それでもだんだんと頭の中でブルちゃんはもうダメなんだという思いが強くなっていく。
15時ごろに最後の確認としてもう一度連絡した。
やっぱりダメだった。
この時にブルちゃんの死を受け入れた。
死を受け入れた途端に涙が溢れてきた。
今までブルちゃんに注いできた情が溢れた。
この時にブルちゃんは死という結果に辿り着いた。
生きていて愛を注いでた器から死という結果に辿り着いて器が替わった。
よりキャパシティの狭い器に替わった。
今まで注いできた情はその器に当然収まることもなくとにかく溢れた。
仕事中だったけど車で移動してたのが不幸中の幸いだった。

この時自分が今までブルちゃんに注いできた愛情が自分が思っているよりも大きなものだったと感じた。
朝と夜に餌をあげていた日々、人目があると泳がないからたまにしか見せてくれない姿、餌に食いつく時の勢い、びっくりしてすぐに隠れる臆病さ、その全てが愛おしかった。
本当に尊い命だった。
そして本当に儚いものだと思った。

今までは自分以外の誰かが管理した生き物を愛でていたけど、初めて自分で育てて自分の情を注いだ生き物に触れることができた。
生き物を飼うってことは死という別れがある。
その別れが辛すぎるあまり生き物は飼わないという人もいる。
気持ちはわかる。
気持ちはわかるがこの一連の流れの中に大切なものがある。

決して色褪せない情がある。

それは自分が生きている限り心の中に存在し続ける。
自分だけが情も含めた記憶を保存できる。
自分だけのもの。いわば宝物。
自分だけが真の価値を知ってる宝物。
これを大切にしていかないといけない。
心の中に生きているっていうのはそういうことだと思う。

齢28にしてブルちゃんの死を通して大切なことに気付くことができた。
ブルちゃんに出会い育てることができて本当によかった。
別れはかなり辛いものだったけどそれも含めて大切な記憶になったと今は思える。

ブルちゃんの亡骸を前に酒を飲みつつブルちゃんの出会いから別れまでを書いてた。
やっぱり涙が出た。
でもこうして文章にしていく中で気持ちの整理がついて、混濁する感情の中から大切なものを掬い上げることができた。
そしてブルちゃんの亡骸を埋葬し終えて、変わったことに気付いた。
ブルちゃんのいない水槽、ブルちゃんのいない家、ブルちゃんのいない世界、僕の心の外は変わってしまった。
それでもあの尊い日々の記憶の中でブルちゃんは生きている。
心の中で生きている。
僕が生きている限りブルちゃんはここにいる。
ありがとうブルちゃん。

天国では悠々と泳いでいてくれると嬉しいです。
お元気で

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