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音楽エッセイの居場所

 映画「PERFECT DAYS」に感化され、幸田文のエッセイ集「木」を読んでいる。

 幸田の遺著となった「木」は、えぞ松、藤、けやき、杉などさまざまな木を題材とした文を集めたものである。木そのものだけでなく、木に触れた著者の心の動きとそれに突き動かされた行動、そして、木と共に生きる人たちの姿が濃やかに描かれている。

 どのエッセイでも、専門用語はほとんど使われていない。徹頭徹尾、私たちの日常的な暮らしから生まれたような平易な言葉で書かれたものばかりだ。

 しかし、幸田自身の生活や体験を通して綴られた、木という存在、そして、人間と木との関わりへの深い洞察には、生きとし生けるものへの限りない愛情と思い遣り、自然への畏怖の念が込められれている。一つ一つの言葉、フレーズにいちいち立ちずさみ、じっくり味わいたくなるので、一向に読み進められないでいる。

 こんな文章が書けたらどんなにいいだろうと、勝手に憧れてしまう。もちろん、即座に「お前には絶対無理だ」と正気に戻れる程度には、自己を客観視する能力はあるつもりだけれど。

 せめて、心震えるエッセイや随筆をもっと読みたい。

 そう言えば、と、考えがふと止まる。

 最近、クラシック音楽に関するエッセイの居場所が、なくなってきているんじゃないだろうかと。

 音楽エッセイとは、ひとまず「対象の評価を第一の目的とはせず、著者自身の思考や感想が書かれた読みもの」と定義しておく。随筆と呼ばれるものも、雑だが含めてしまおう。

 エッセイがまったく読めなくなった訳ではないのだけれど、まとまった形で上質なものが読める場が激減してしまった。特に、音楽を職業としないプロの書き手が書くようなものが。

 激減というからには、以前にはあった。昔のことを言うと漏れなく「老害」扱いされてしまうだろうが、例えば、昨年休刊になった音楽雑誌「レコード芸術」では、私が読み始めた1970年代後半には、音楽の非専門家によるエッセイが掲載されていた(ドナルド・キーン、粟津則夫、鍵谷幸信、荻昌弘など)。今でも覚えているような名文もいくつもあったと思う。

 だが、いつ頃からか、評論家からも読者からも「印象批評はやめろ」という声が上がり始め、雑多な読みものは減少していった。その代わりに、音楽家や学者といった専門家が書く、緻密にして高度な評論が誌面を埋めるようになり、エッセイ的な文章の書き手は主に我々アマチュアの方へとシフトしていった。

 それはそれで時代の必然に違いない。とりたてて悪いことでもないと思う。何より、専門性の高い評論が増えていること自体は大いに歓迎できる。

 けれど、それと引き換えに、専門家とはまったく違う視点から音楽を聴き、優れた思考、思惟を経て書かれる良質なエッセイが居場所をなくしてしまった。同時に、音楽の悦楽を追求する猥雑なエネルギー、そして何より「道楽」としての音楽の楽しみ方を提示してくれる場、「あそび」としての空間が消えてしまったように思えてならない。

「レコード芸術」誌が休刊になる少し前、書評欄で見た文章がどうにも引っかかったのを思い出す。

 レビュー対象は、とある作曲家をテーマにした極めて優れた書籍なのだが、評にはこんな意味のことが書かれていた。

「読む前はタイトルから音楽エッセイなのかと想像したが、実際は立派な評論、研究書で安心した」

 音楽の専門雑誌で専門家が評論するのだから、相手はちゃんとした専門書でなければ論ずるに値しないということだろうか。

 なるほどと件の評者の言葉には賛同しつつも、私の中で割り切れない思いが残った。恐らく彼は何の悪意もなく書いたに違いないが、音楽エッセイが邪道で、評論や研究よりも劣るという意識が潜在的にあるように思えて、ちょっと哀しかったのだ。繰り返しになるが、「木」に関してはずぶの素人である幸田文が、知識をひけらかすでもなく、玄人になりすまそうと蘊蓄を傾けるでもなく、優しくて、それでいて真に迫ったエッセイを書いた、そんなケースはいくらでもあるのだ。

 願わくば、新しい音楽雑誌が生まれるとしたら、そこに少しでもいい、一流の書き手によるエッセイの居場所を作ってあげてほしい。そこはきっと、バリバリの専門家と、私たち素人愛好家との間をうまく橋渡ししてくれる里山的な場所になると期待している。

 誰かが「読みたいものがないのなら、自分で書け」と言っていた。そうできれば良いのだが、私には「エッセイ」と呼べるものを書く力はない。せいぜい、その一歩手前、「ウッセーワ」と人様から叱られるものしか書けない。

 でも、それもまた人生。「対象の評価を目的とせず、著者自身の思考や感想が書かれた読みもの」を書いていこうと思う。印象論上等、自分語り上等である。

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