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"死"を思い出した人のための文章

今年で25歳になります。
こう言うと急に重い話っぽくなりますが、私は最近よく死について考えます。「死にたいな〜」とかではありません。"死ぬことの善悪"についてです。

 ①-1 幼い私と死

こんなこと言うとびっくりされるかもしれませんが、幼い私にとって、ときに死は興奮の対象でした。きっかけは思い出せませんが、真田幸村の伝記まんがを読んだとき、ひどく心を掴まれたのは覚えています。
若く逞しい名将が、義を貫き散る。伝記ではそのさまが極端に美化されていて、少年だった私は「死ってなんだかカッコいいものなのだな」と倒錯した感想を抱いてしまったのだと思います。

他にもチンギス・ハンの伝記で埋められ馬に踏まれるテムジンや、燃え上がる本能寺の中で着物の前を開く織田信長、澄んだ瞳で刀を手に取り次のコマでは鮮血の上に突っ伏している武市半平太(これは確か『その時歴史が動いた』の漫画版でした)など、死のシーンはことごとく幼い私の目に強烈に焼き付きました。

昔ボロボロになるまで読んだ日本史人物事典が今も手元にあります。この事典には、各人物の生まれた年と亡くなった年が西暦で書いてありました。亡くなった年から生まれた年を引き算して導いたのでしょう、幼い私が人物の肖像画の横に記した享年メモがいくつか残っています。

私は高校で日本史を選択し、大学の日本史学科に進みました。私は歴史が大〜〜好きでしたが、今思い返すとその根幹には"死"への興味があったのだと思います。
そして歴史に親しんできたからこそ、現代日本人の"常識"に関して、少し気になる点があるのです。

①-2 日本人と判官贔屓

日本は四季のある国。つまり移ろいゆく時の流れを実感しやすい国です。
だからこそ日本では、散りゆく儚さや弱々しさに共感が集まりやすい。
また、例えば江戸時代の日本では死にもランクがあり、斬首よりも切腹が高潔で、名誉なものとされていました。そして命を投げ出してなにかに尽くした人(忠臣蔵だとか義民だとか)がもてはやされた時代でもありました。
昔の日本は特定の"死"を肯定する土壌が整っていたといえるのではないでしょうか。
(日本史で卒論を書いたにしてはフワッとしすぎている表現の数々!何卒お許しください!)

①-3 現代日本における死

日本は太平洋戦争を乗り越え経済的に成長し、人の手による意図的な大量死は("大量"の定義にもよりますが)ほぼみられなくなりました。人の手によって人が死ぬことが、どんどんと異常なことになってゆきました。
しかしそのせいでなんだか、より「自然に死ぬまで生きなきゃいけない」というムードが濃くなってきたように思われます。
要するに、「死はマイナスだから、死んじゃうまでは死なないでいようね」という"常識"。
いや、そんなの当然じゃ〜ん!とこれを読んでいるあなたは思うかもしれません。

本当にそうでしょうか?


②-1 どうして生きているのか

既におわかりかもしれませんが、私達ひとりひとりの生命に理由などありません
生まれた原因(親同士の交配)と、生きる目的(種の繁栄)ははっきりしていますが、それは"人類"から見たもので、しかも"人類"から見ると"私"は、まあいてもいなくても大丈夫。
これまでは増え続けていればよかったけど、地球の面積と自給可能な食糧が限られていることを知ってしまった以上、そんなに増えまくったって仕方がありません。(文章からおわかりかもしれませんが、超〜文系なので理系知識がありません!もちろん先進技術に明るくありません!今の技術だと何かしら解決方法があるのかも)
だから、私が子供を産まなくっても"人類"にとっては大きな問題ではありません。今生きているヒト全員が子供を産まなければ"人類"は絶滅しちゃうのでヤバいですが、今生きているヒト全員が子供を産むと"人類"は食糧不足になるのでそれはそれでまあまあヤバい。長期的に見ると、食糧が不足したらその分人口は減るのでやがて食糧不足は解決しますが。

②-2 より広い視点で

ただ、"人類"にとってプラスなことは、ときどき"人類以外"にとってかなりマイナスに作用します。"人類以外"は、絶滅させられちゃうのヤだな〜と悲しく思っているのではないでしょうか。
"人類"にとってのみプラスな選択肢か、"人類以外"全員にとってプラスな選択肢かの2択であれば、プラスの影響を享受する者が多い選択肢を選ぶべきだと個人的に思います。
まあ、"地球"としては生命が増えようが減ろうがいようがいまいがどうだっていいのですが、、

 ②-3 要約

つまり、子供を産むこと以外に"私"が生まれた理由はないけど、産みすぎても"人類"にとってはマイナスだし、全く産まなくても"人類"にとっては超〜マイナスなので、"私"は産んでも産まなくてもどっちでも価値がある(=言い換えると、産まれた意味が曖昧になっている)。ただどっちにしろ"人"が在り続けているというだけで"人類以外の大半"にとっては超〜マイナスなので滅亡したほうがよくって、とか難しいこと言ってっけどそもそも"地球" の気持ちとしては全部ど〜〜でもいい、って感じです。
大丈夫です、ちゃんと言いたいことはあります。

②-4 言いたいこと

要するに、産まれた理由はほぼ無い。なので、今すぐ死んでも死ななくてもいい。つまり、死にたければ死んでもいいってことです。
①の最後で、「自然に死ぬまで生きるのが普通」なムードがあると書きましたが、私は、誰もが死にたいときに死んでいいと思っています。
"私"や"あなた"が生きたいように生き、死にたいように死んで、いい。



③-1 文を書いた理由

明言は避けますが、少し前にある音楽グループのブレーンだった方が若くして亡くなりました。自殺だったそうです。死因を無遠慮に報じるメディアには辟易しますが、私も人のことを言えませんね。
私はそのグループにそこまで思い入れがありませんでしたが、グループ名を聞いてある曲の存在をふと思い出し、聴き返すことにしました。

YouTubeに投稿されていたその曲は、紛れもなく名曲でした。私はその曲のスゴみに、その時気づきました。
興奮の中、なぜだろう、と疑問に思いました。その曲はあまりに神がかって聴こえ、歌詞はあまりに崇高なものに思えたからです。

しかし疑問に思ったときにはすでに、自分の中で結論が出ていたように思います。
それは、曲と詞を書いた彼女が、自殺していたからです。
その曲は生命を見つめ、死を選んだ人間が紡いだ曲であり、その詞は彼女が思い悩んだ日々を吐き出した詞だということに、その時、なった
あくまで私の中でですが、そうなった。
だから名曲に聴こえたのかな、と思いました。

動画のコメント欄には、制作者の死を受けて動画にたどり着いた方の書き込みもありました。"死"をきっかけに曲と出会う人も、いたということです。

そうか、と思いました。生と死はすべての人類に平等に与えられた権利です。
たとえば創作者が、特に精神・肉体のすべてを創作に注いできたような創作者が、「この先これを超えるものはないだろう」というような不世出の傑作を産み出したとします。
しかしその作品が思うように広まらなかった、もしくは思うように評価されなかったときに、なおかつ創作者がそれを文字通り"死ぬほど"不満に思った場合、とりうる手段の一つが"自殺"なのかもしれない。そう思いました。
創作者が自殺を選んだ瞬間、その作品は生命を賭した絶作になる可能性があるということです。

②の最後で私は「生きたいように生き、死にたいように死んで、いい」と結論付けました。これは、地球が滅亡したって揺らぎません。
人為的な"死"への、現代日本人の否定的な反応のほとんどは、漠然とした「死=悪」という感覚によるものだと思います。その感覚に違和感があったので、自分の考えを整理する意味もこめて、この文を書いてみました。


 ③-2 最後に

私は、死のあとの無限が恐ろしい。
そして皮肉なことに、無限たる死を恐れることは、死の手前に存在する有限を恐れることに直結しています。
私は、例えば茶屋町の紀伊国屋みたいな大きい書店とか、故郷の市立図書館に行ったときなんかに、ひどく憂鬱な気分になります。
私は本が好きです。しかし、私の視界に映る本のすべてを読み終えるまでに私は死んでしまうでしょう。大量の本は私に死を見せつけるので、憂鬱な気分になってしまいます。

このおそろしさを打ち明けられるほど気のおけない関係の人間は、私の周りにいません。
そして、もし打ち明けられたとしても、その人は「死から目を逸らしつづけている」人かもしれず、その人に私が"死"を思い出させてしまうかもしれません。メメント・モリ!

せめてネットにでも死を肯定してくれる人がいれば、幾分気持ちが楽になるのかなあ。と思い、この文を公開してみることにしました。
雑然とした文章で恐縮です。最後までお付き合いいただいたあなたが、素敵な人生を生きられますように!

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