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阿含経講義・五根法 念根2 雑阿含経「分別経」

五根法の修行法のひとつとして語られる念根は、四念処法(四念処観)+念力を強くする修行法である、と阿含宗開祖は解説しています。

ここでは念根その1に続く内容として、四念処法の「法観」について、ボクの言葉で説明していきます。

【書き下し文】
何等をか念根と為す。若し比丘よ、内身の身観に住し、慇懃に方便し正念正智もて世間の貪憂を調伏し、外身・内外身の受・心・法の法観念に住するも亦是の如く説く。是れを念根と名付く。

【現代語訳】
念根とはなんでしょうか?
比丘たちよ、内身・外身・内外身の身観に住し、法にかなった正しい方法による正念と正智によって世間の貪りと憂いを調伏し、受観と心観、また法観においても同様に観ずるのが念根です。

【解説】
念根では、四念処法(四念処観・四念住)を行います。四念処法はくうを悟るための4つの深い瞑想法から成り立っています。その4つの瞑想法とは、身観・受観・心観・法観です。
四念処法の4つの瞑想法は、ひとつひとつが独立しているのではありません。まず身体を不浄と見て、そこから進んで受観に移る。ここで感受作用(受)は苦である、と見るわけです。それから心観に進む。心観は無常観ですから、これによって、心は常に変化してとりとめがないことを悟ります。心は常住のものではないことを体得するわけです。そしてさらに法観という「無我(非我)の観」に入り、あらゆるものはくうである、という境地に到達するわけです。その観想を内身・外身・内外身のそれぞれにおいて、深く観じていきます。

雑阿含経「分別品」
仏陀の真実の教えを説く 阿含経講義【上】P.345

ボーナスして引用しています。もっと読みたい方は是非書籍を購入して読んでいただければと思います。
そして、ここからは、書籍の内容を超えて、ボクが理解しているところの内容を、ボクの言葉で説明していきます。

まとめ

四念処や念根は、学者さん的な抽象的な言葉で理解しようとすると、何を言っているのか理解できないまま終わる。
 ※その1を参照

でも、仏教の根本思想の縁起論に立ち返り、自分(内身)と他者(外身)との縁が発生する因縁果報のメカニズムを理解して、その縁起を変えることで運命を良くしていくことが可能なのだという本質に気づいてしまえば、難しいことなんて何も無い。
 ※その1を参照

そして、その考えにもとづいて実践すれば、念根の本当の目的である「貪憂とんうの調伏」ができる。

人間の縁を変えて、「貪憂とんうの調伏」をするには、本当の力をもった神仏の力が必要である。そして神仏を信じる心を持たない人は、念根の実践条件を満たさない。

その1とは、こちらです。このnoteの前段階の内容となります。

四念処法の法観を考える

四念処、念根、縁起の法を基準に考えてみて、現状が苦である、と理解したならば、次にどうすれば良いのでしょうか?

縁起空だから救われるということを知る

仏教の教えの根本は因縁果報の縁起論、縁起の法と言って、この世の中の法則を説明しています。
後世、この縁起という言葉が「くう」という言葉で表現されるようになりました。即ち「色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」という般若心経の言葉です。

般若心経で最も大事な言葉は「空即是色」です。「色即是空」ではない。「空即是色」とは、この世の中は縁起空の法則の中にあるのだから、縁を変えれば運命を変えられる、という意味になります。

般若心経について、noteであれこれ述べている方の文章をチラホラ読んでみると、空は縁起であるという事を理解している人に出会うことは、まず無いです。1人くらいいたかな?
そして、さらに一歩進んで、「くう」とは「縁を変えたら救いの道があるぞ、現状を変えることができるぞ」という教えなのだと述べている人は、ボクはまだ見かけていません。

くう」あるいは「縁起の法」とは、まず何らかの原因があって、その因にふさわしい何らかの縁が発生して、何らかの結果が発生し、その影響が続くという、この世の法則のことです。

それは逆に言えば、何らかの原因があるのだけれども、特別な縁を発生させることで、最悪な結果を生じさせないようにして運命を転換することができる、という教えにつながります。

例えば現在でも、交通法規で全く落ち度のない場所にいる歩行者に向かって車が突っ込んできて歩行者が事故死してしまうという交通事故が起きます。
このような事故に遭遇する運命を転換したい場合、一体、どうすればよいでしょうか?

気をつけるとか、気合や根性で、自分の意識外の場所から突っ込んでくる車を避けられるのでしょうか?
学者さん系の人達が主張するような抽象的な仏教理論を理解すると事故が発生しなくなるのでしょうか?

Yesだ!気合と根性と抽象論の理解で事件事故は避けられるのだ!
と断言する人も世の中にはいるかもしれない。

ですので、ここからは、そうは思わない人向けの説明となります。
実際には気合と根性と抽象論の理解で事件事故を避けることはできないので、どうするのかというと、人間の縁や運命を変える力を持った神仏の力を借りて、決定的な事件事故を避けることができる縁に変えてしまいます。
悪縁を良縁に転換するのです。
それによってギリギリ車が横を通り過ぎて、怪我一つしなかったとか、そもそもその日その時その場所に行く予定が変わったので危険な事件に出会うことすらなかったという結果にしてもらう。

縁を変える人智を超えた力の存在があるということを知る

法観の段階では、こういう事が可能なのだと認識・理解することから始まります。法観の「法」とは仏法の「法力」であり、諸々のカルマ、悪縁を変えてしまうほどの実力を持った霊的エネルギーのことです。

突然、神仏の力を・・・とは論理が飛躍しすぎるのでは?と感じた人向けに説明すると、そもそも、念根を考えるための前提条件として、力を持った神仏の存在を信じる「信根」をクリアしている必要があります。だから本当の力を持った神仏が存在していることが当たり前の状態からスタートしています。

今の自分や家族、その他の外部環境の「苦」の状態を解決するためには、悪因悪業を消滅させ、悪縁を良縁に転じさせる神仏の力が不可欠であると認識し、実際にその力を借りて「苦」の状態を解消、即ち貪憂とんうを調伏することが法観の実践です。

このように理解すれば、四念処法は、もはや瞑想の域をはるかに超えた、もっと違うものであると理解できると思います。
瞑想状態になって考えても良いですけど、普通の状態でも考えることはできますよね?

このような理由があるので、瞑想技術だけに着目していて神仏の存在を無視している人には、四念処法や念根の理解と修行はできません。
学者さんたちは、科学の名の下、仏教を思想・哲学・倫理・道徳にしてしまい、本当に必要な神仏の存在を抹消してしまったから、ボクがする説明の内容を(立場上)理解はできないし、(立場上)学者として同様の説明をすることは許されません。

だから、こういう本当の核心部分の説明は、信仰の現場にいる人間が説明するしかありません。

で、どうやるの?

念根の目的は【世間の貪憂とんうを調伏】することです。
しかも「自分の」ではなく【世間の】です。
つまり自分だけが助かりたいという考えではダメだということです。

文章の意味は理解したけれど、実際には、どうやって【世間の貪憂とんうを調伏】するのでしょうか?

ここからは、特殊な能力と技術が必要になってきます。

その3につづく

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