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夜の憎悪は、昼の憎悪を凌駕する苦痛である

人間という生物が幸せに暮らす為に必要なことは2つだ。
朝昼は起きるように。
夜は眠るように。
それさえできれば、日々の幸福は約束される。
(ここでは、朝昼夜は人間の体内時計を基準とし、日の有無は問わない)

しかし、それを実行できない。私は今、憎悪によって身体中が滾っているからだ。
私のような、日を避け夜に逃げる人間にとって、憎悪ほど大きなエネルギーはない。
全ての動機になり得る強大なエネルギーによって、私は今日を終えることができない危機に陥っている。

昼の憎悪は、すぐに解消される。昼は天道様によって保護されているからだ。
昼の憎悪は認められる。あるいは、憎悪に染まれると言うべきか。
周りに憎悪を撒き散らすことができる。無論、当てられた周囲の人間はたまったものではないが、本人は回復するだろう。一時的に、とは言うまでもないが。

夜の憎悪は違う。夜に憎悪を抱くものは、自らの憎悪を認めていないのだ。
だから孤独に憎悪を抱く。誰にも見られないよう、夜に抱く。
そして念仏のように唱えるのだ。
「私は憎悪を抱く人間ではない。私の憎悪は私の手で捨て去らねばならない。」
悪を許せない正義感を教育された人間は、自らの憎悪を憎む。自分自身を憎む自縄自縛で胸が張り裂けるのだ。
当然、自分を労る事ができないのだから眠ることなどできようはずがない。
憎悪の朝を迎えることになる。

最悪な気分の朝も、昼にはやがて解消される。
否、憎悪を抑圧しただけだ。自分の中にある憎悪を、見ないふりして仕事に逃げているのであり、決して解消などといったハッピーエンドを迎えたわけではない。
私が見なければ、周りも私の憎悪に気付かない。私が憎悪を抱くような人間であることを気付かれてはならない……そうして自他の境界線を厚くしていくのだ。
他人と距離を保ち、まるで真人間のように振る舞う様は、憎悪を抱く人間であるとは思わせないだろう。しかし同時に、人間ではない無機質さを醸し出す事になる。

抑圧し続けた夜の憎悪は、やがて自らの中で膨張し抱えきれなくなる。
きっと思うだろう。「私を理解してほしい。私は苦痛に満ちていて、救われたいだけだ。」
そう言って、人を境界線の内側に引き込み、憎悪を一部だけでも抱えてほしい、救ってほしいと懇願する。
当然、それは夜に行われる。昼の場では行われない、神聖な秘め事なのだ。
そうして、ほんの少し解消されるか、あるいは理解者を1人、混乱に陥れる。

昼に憎悪を隠し、夜に憎悪によって苦痛を受ける生活は想像を絶する痛みだ。
規範意識によって教育された「人は憎悪を持ってはならない」が、憎悪を持つ私を憎む。
私という芯、自我を持っている人間なら簡単に跳ね除けるだろう。
だが夜の憎悪を抱く者は、自分を喪失した、あるいは形成されなかった者だ。
そのような人間は、規範意識こそが自分だとすり替え、依存する。
そして"規範意識という名の私"が"存在しない、してはならない私"を憎む、その苦痛の大きさを常識で測ることなどできようか。
私自身という一番の味方が、一番の敵なのだ。そこに信頼できる味方はいない。
空虚な私と共に、孤独に戦うしか道が無い。

夜に憎悪を抱く者は、"ちっぽけで空虚な私"を認める事から始めなければならない。
憎悪を空虚な心に押し込めて、満たそうとしてはいけない。

安心して寝ること以上に幸せなことなどあろうか。


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